バクシーシ山下のアダルトビデオ「女犯2」は、トラウマになる。しかしまとめサイトなどないようなので、まず時系列にして、注釈を加えることにした。
1990年9月「女犯2」リリース
1991年10月6日 「自主講座の仲間」というグループがこのビデオを問題視し、「AVビデオ『女犯2』を考える」という催しを行い、バクシーシ山下を呼ぶ。会員では若槻世都子の名が出ている(足立)。
その後、「V&R」は、飯島あつ子が、強姦の演技について承諾した様子を撮影したビデオの提出を拒否する。
1992年 足立倫行が著書『アダルトな人びと』(講談社)でこの件を取り上げるが、むしろバクシーシに好意的。(のち文庫化)
同年、「AV人権ネットワーク」がバクシーシを糾弾し、その性被害に遭った者相手のホットラインを二日間設けるが、連絡はなし。
この間、石坂啓が「東京新聞」でバクシーシを非難したとバクシーシ著にあるが、確認できず。
1995年 バクシーシ、『セックス障害者たち』を太田出版から刊行。この件に触れ、運動家たちを「マニア」とバカにする。
1997年10月13日号『アエラ』の「現代の肖像」で速水由紀子がバクシーシを描くが、「演技」であるという立場をとる。ここに宮台真司によるバクシーシ礼讃が引かれている。
1998年8月、宮台、上野千鶴子と『論座』で対談。双方、ポルノ解禁で合意。
10月 宮台、『週刊読書人』の連載でバクシーシを擁護。
1999年3月 藤本由香里『快楽電流』(河出書房新社)刊行。
8月、『セックス障害者たち』文庫化。解説・高橋源一郎。
12月 杉田聡『男権主義的セクシュアリティ』刊行。
2007年10月 バクシーシが理論社より『人はみな、ハダカになる』を刊行。理論社に対する抗議運動が起こる。
(解説)バクシーシ山下は、本名山下浩司。AV男優をへて安達かおる(男)の下で監督となる。「抜けない」つまり性的に興奮できないAVを撮ることで知られる。女優の体にゲロを吐きかける男優も出てくるし、なかんずく、本物の強姦ではないかと思わせるもので物議を醸した。
かねてからAV業界では、処女喪失ものの本物は抜けないと言われている。しかし人によっては、スカトロ、SMでもダメだし、そうでなければダメだというマニアもいる。強姦となると、普通は演技だが、観る側の年齢も関係すると思う。私は20代前半までは、強姦ものでも普通に興奮できたが、その後、ダメになっていった。もっとも演技の強姦ものは、はじめは嫌がっているのが次第に女も快感を感じてくるという筋書きだ。
しかし、中には工夫して本物の強姦にしてしまう場合も、昔からあって、それはたいてい、あまり盛り上がらない撮影をして、女優が、これで終わりだと思ったところへ襲いかかる、というパターンだ。
AVの中には、明らかに、女優が、そんな話聞いてなかった、というのがあるが、多いのはやはり、コンドームをつけないとか、中出しである。
「女犯」シリーズは1990年に始まるが、さてこれは何と読むのか。速水由紀子は「にょぼん」とルビを振っているが、これは仏教用語で、「にょはん」ではないのか。
すべておおむね、本物の強姦ではないのかと思われるシリーズだが、特に問題とされたのが「2」なのである。
足立倫行が一応その内容を記してはいるのだが、ちょっと違う。
まず冒頭では「これじゃ強姦じゃない!」と泣き叫ぶシーンほかが、細切れで予告され、続いて東京らしい町並みに、「彼女がスカウトされたのは三日前」「二日前に、仕事がアダルトビデオだとプロダクションから伝えられた」「前日に、製作会社であるV&Rに引き渡された」と字幕が出る。そして、ビデオの最後には「この作品はフィクションであり、モデル本人の願望を率直に映像化したものです。決して真実ではございません」という手書きの文字が入っている。
女優は、飯島あつ子(仮名)、19歳、専門学校生となっている。これが、まあちょっとしたブスなのである。しかし歴然たるブスというのではなくて、もしかしてかわいいで通るかなという微妙な線なのだが、いったん口を開くと、いかにもバカっぽい。
それが、ソファに男優と並んで座って、男優が話しかける。これが川口たけおという男らしく、背広姿に髪をきちっとまとめている。始めは飯島も笑顔なのだが、川口が「どんな男が好き?」などと話しかけるのに対して答えている、その笑顔がややこわばっている。しかも川口の質問の間が妙で、バクシーシはこれが川口の素だと書いている。それから、時々飯島にふーっと息を吹きかけるが、これもバクシーシが、女の子は首筋に息を吹きかけるといいと雑誌などに書いてあるのを川口は真に受けていると書いている。
さて、それじゃあいよいよセックスに入ろうという段になって、川口が、いきなり「愛の言葉」を口にし始める。「君だけが僕のすべてだ」とか言い出すのである。それで次第に女が気持ち悪がって「気持ち悪い」と言うと、「気持ち悪いと言われるのは分かっている。僕はそう言われてしまう男なんだ」といったことを言ってさらに気持ち悪がらせる。バクシーシは、女の子が嫌がらなかった時のために柳田を待機させておいたが、それは必要なかった、と言っている。その一方で、筋書きは女の子に教えてある、と言っているのだから明らかに矛盾している。
しかしもう一つ、バクシーシも、バクシーシ批判側も書かないことがある。この女は、頭が弱いのではないか、ということだ。精神薄弱というほどではないが、かなりバカだ、と思える。川口はキスをしようとするが女は嫌がり、ここで宇野というのが、緊張をほぐすためにとか言ってマッサージを始めるが、女をベッドにうつ伏せにして、背中にベビーローションを塗ったりする。しかし女は、AVの撮影で来たというのに、胸を見せるのを嫌がったりして、どうも変だ。その後女はまた服を着て、ソファでの川口とのからみからまた始めるのだが、キスは今度はしたものの、それ以上にしようとすると、「やっぱり、好きな人とでないとできない」と言い出す。これには二人くらいから「じゃあなんで撮影に来たの」と言われ、次第に女は泣き声になり、できない、とか、「おカネいらないから」と言い出す。
別の男優が出てきて、抱きしめたり脱がせたりしようとするのだが、女は抵抗して、「できない」「もう、大丈夫だから」などと言う。この「大丈夫」は、名香智子の『パートナー』で茉莉花が強姦される時に「もう、いいから」と言うのと同じ、懸命に逃げようとする時の言葉だ。
「女犯2」がトラウマ度が強いのは、他のリアル強姦ものなら、AVに出るつもりで来ている女優に、いろいろおかしなことをして怒らせるなどして強姦に持っていくのが、どうもこの女は、AV出演自体初めてだったのではないか、と思わせるところにある。特に、この時点での泣きじゃくり方は、強姦されて泣いているのではないから、余計リアルなのである。と同時に、この女はAVのこととかよく理解していないのではないかとすら思わせる。そして遂に強姦、乱暴狼藉が続き、女はほとんど泣きながらやられている。観ているほうも苦行を強いられる。それがようやく終わると、もう帰っていいと言われた飯島は部屋の外へ全裸で逃げ出し、あとから服が放り投げられ、廊下で飯島は泣きながら罵声を浴びせる、というところで終る。足立倫行は「ラスト飯島は部屋に逃げ込んで号泣」と書いているが、これは間違いである。
ただ当然、出演した以上、飯島はカネを貰っている。そうである以上、訴えて出ることなどあるはずがない。恐らくこの作品は、バクシーシにとっても手違いだったのだろう。つまり、飯島が想定以上にバカだったのである。普通、こういうAVでは「こんな話、聞いてないわよ」といった台詞が出てくるが、これにはそれがない。暴行AVどころか、AVそのものすら嫌がっているのだから。
バクシーシのAVを徹底批判したのが杉田で、浅野千恵もこれに加わった。バクシーシ本人のみならず、宮台、藤本由香里も非難された。藤本は『快楽電流』に収められた文章で、「女犯1」について、「確かに面白い」と書き、けれど人権としてどうなのか、と書いたので、私は当時杉田氏に、藤本さんをそこまで言うことはないのではないかと言った。また高橋源一郎も非難されている。
私がこんな20年も前のことを改めてまとめたのは、理論社への抗議運動が起きているからでもあるが、藤本由香里が「AV人権ネットワーク」に参加していたと聞いたからでもある。しかし、それならなぜそのことを今まで隠していたのか。私には、藤本が今なお宮台を評価しているように見えることが気になる。また上野千鶴子もこの件については何も言っておらず、上野‐宮台‐藤本の、何か隠微な関係を感ぜざるを得ないのである。要するに、徒党を組む、というような。
松文館裁判にしても、宮台が弁護側で登場しなければ、もっと世間の理解を得られただろうと私は思う。依然として愚かな若者の中に宮台信奉者はいるが、宮台が関わっているから信用しない、という人も多いことを(まあ多ければ正しいというわけではないが)、周辺の人間はもう少し真面目に受け止めるべきではあるまいか。