読まなければよかったのに日記

 私が大学院生の頃、米国から来ていた日本学者が研究室にいて、話しているといかにも優秀そうだったがまだ著書はなく、論文の抜き刷りを配っていた。しばらくして、某助手氏が「論文、読まなきゃよかったな」と言ったのは、存外ダメでがっくりしたという意味であった。
 私は1999年8月に、坪内祐三編集『明治の文学』の花袋の巻の編集を依頼されたが、ちょうどその頃、坪内の『靖国』をめぐって川村湊と論争になっており、私はその時、明治の文学が終るまで『靖国』は読まずにおこう、と思った。二年後、『靖国』文庫版が出たので読んでみたら案の定ダメだったから批判したのである。しかし今にして思えば花袋を私に充てたのは坪内祐三大当たりである。それに『「別れる理由」が気になって』は、『別れる理由』が、とうてい常人には読み通せるものではないから、案内本として便利である。
 さてツイッター方面で昨日あたり、いいのかダメなのか、阿部公彦の書評をめぐって議論になった円城塔、その『烏有此譚』だが、これも私は読まない方がいいような気がしていたのだが、なりゆき上、読んでしまった。
 まずこの、すっとぼけた、もって回った書き方というのは、全然新しくはない。純文学でいえば後藤明生とか、『おどるでく』の、あの消えてしまった作家とかがいるし、あるいは椎名誠赤瀬川原平南伸坊なんかがもうちょっと通俗的にこんな文章を書いた。もって回った面白くない文章は、森見登美彦、かつての小野正嗣あたりがいる。しかしさらに遡れば『伊藤整氏の生活と意見』というのがあって、要するにそれにプラスアルファ(理系的知識)が加わっただけである。
 つまり、中学生にとっては中野実の『花嫁設計図』がとてつもなく面白く感じられるという、そういうことである。   
 ああ、読まなければよかった。 

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島田雅彦ツイッター芥川賞への恨み言を書いてるくらいなら『大いなる助走』の芥川賞版を書けばいいのだ。むろん独自の手法でね。そうしたら少しは見直すかもしれない。

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一昨年亡くなった阪大比較文学教授の米井力也の著書が出ていた。あとがきは編纂者が書いていたが、なぜか最後のほうで「飯台」という語についての説明があって、どうもおかしかった、という話を妻にしたら、2ちゃんねる脳になっていると言われた。

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 私はキネ旬ベストテンが発表されると次から次へとDVDを借りて観る。今日は『誰も守ってくれない』を観た。啓蒙的意図は評価するにやぶさかではないのだが、リアリズムを無視しているところが多くそれが瑕になっている。まず冒頭で、警察が容疑者家族を保護していることは知られていないと断りながら、映画内ではそれが報道されている。また刑事が、言われて初めて2ちゃんねる(?)に気づくというのもうかつ。15歳の少年があそこまでやるのはありえない。また18歳の容疑者の15歳の妹を追い詰めるほど匿名掲示版は悪質かどうか。それと、こうした事態が東京のど真ん中で起きたことは実際にはない。また佐々木蔵之介が「容疑者家族も制裁を受けるべきだ」と暴言を吐くがあれは問題になりかねないだろう。
 最後が珍妙な家族主義的結論になるのもいただけない。
 これは、あってもいい映画だが、それなら匿名掲示版に書きこむ者たちを描いた映画もあってしかるべきではないか。恐らく彼らもまた、社会的に不遇な地位に置かれ、その鬱屈を他人を攻撃することで晴らしているわけであり、次なる殺人者予備軍なのだから。 

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http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news006978.html
いちいちからみたくはないのだ。本当である。しかし「研究生活22年目」とは何か。佐伯さんが
大学院へ入ったのは1984年だから、27年目である。どうやら「教員生活22年目」のつもりらしい。もし専任教員になってから研究生活が始まるのだとしたら、生涯非常勤の人は研究をしていないみたいである。わざとやってるのか。

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中野美代子は意地悪だ。『ザナドゥーへの道』のあとがきで、「インドへの道」みたいだとか、コルリッジの「クブラ・カーン」に触れたりしつつ、Road to Xanadu がロマン派の創造力を論じたJohn Livingston Lowes(1867-1945)(ローズと読む)の古典的評論の題であることに触れていない。
 おそらくそのことを知らずに書かれた書評を見て「知らないんだなふふふ」と思っているのだろう。円城塔も知らずに書評したのかな。

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週刊読書人」で東大准教授清水晶子が、結婚して姓を変えた変なフェミニスト名大准教授松下千雅子の本を絶賛しているが、この文章がまったく文学研究の末期的症状を如実に現しているもので、「ホモ/ヘテロ」の二項対立を脱臼させるとか「クィアする」だとか、もう20世紀の遺物的な内容空疎な言葉遊びに堕し、淫しきっている。クィアスタディーズとやらの末路である。