いま『週刊ポスト』の「逆説の日本史」で井沢元彦が田沼意次を扱っているので、そこにも書いてあったのだろうと思うが、それとは無関係に、大石慎三郎の『田沼意次の時代』(岩波書店、1991、その後現代文庫)を読んで、おかしな本だなあと思った。というのは、大石は、田沼は賄賂政治家として悪評高い、として、しかし同時代の証拠はなく、実は清廉な政治家だったと論じているのだが、そこで辻善之助の『田沼時代』を取り上げて、田沼の悪人説を広めたのはこの本だ、としつこく書いている。
だが、辻の『田沼時代』は、田沼は商業を重視し、貿易を盛んにしようとした政治家であるとして田沼を再評価した本であり、賄賂をとったことを否定していないにしても、大石の本だけ読んだら、まるで辻著に対してフェアではない。
続けて藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007)を見たら、まさに、大石が言うよりずっと先に、辻が田沼再評価をしている、と書いた上で、大石が田沼を清廉だとした根拠である伊達家文書について、大石の誤読である、と断じている。ただ正確に言えば、当時の幕閣が、昇進を願う大名から賄賂をとるのは慣例化しており、田沼も単にその一人だったに過ぎない、ということになる。藤田は、バブル経済の時代に田沼はもてはやされた、とも書いており、なるほどそういうことか、と腑に落ちた。藤田覚という東大教授、なかなかの傑物らしい。東大の国史には、しばしばこういう傑出した学者が出る。
それにしても、『貧農史観を見直す』の大石先生、もう亡くなっているから反論はできないが、辻著の扱いはいかにも東大史料編纂所への敵意むきだしだと思ったし、『田沼…』はハッタリかましたなあと思う。だいたい辻著は岩波文庫に入っているのに、よくこんな本、岩波から出したものだ。
『リチャード三世は悪人か』を書いた経験から言うと、歴史上の人物の評価が、仔細な検討によって180度変わる、などということはまずありえない。
(小谷野敦)