十返舎一九

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 『吉原手引草』の年代に関するものだが、最後のほうで「名高い十返舎一九」という台詞がある。一九が有名になるのは「東海道中膝栗毛」刊行の享和二年(1802)以降と見るべきだろう。掲示板もメールも閉じられているのでここに書いておく。

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新書判というのは、書き下ろしが原則で、時には雑誌発表のものをまとめたり敷衍したりすることがある。単行本を新書判にするということは、まずない。2001年、洋泉社の新書yで、網野善彦宮田登の『歴史の中で語られてこなかったこと』が出た時、確か週刊朝日の書評欄で、永江朗だったか、新書だから新刊だと思ったら、98年に同社から出た単行本の新書化だったので、新書界の慣例に反する、と批判していたことがあった。
 新書を文庫にするのでさえ、以前は中公新書がやっていて、講談社現代新書もいくつかしているが、講談社はあまりベストセラーになったものは文庫化しないので目立たなかった。最近になって、ようやく岩波新書の古いものが文庫化されるようになった。これも、もう十年以上前だが、ある編集者が、新書を文庫化するなんて非常識だと言っていた。
 最近では、洋泉社のMC新書のように、元から単行本の新書化として出ているシリーズもあるが、基本的に新書は新刊である。ところが、1997年に講談社現代新書から出た中島義道の『カントの人間学』は、92年に中島が北樹出版から出した『モラリストとしてのカントⅠ』の新書化だった。洋泉社のように題名が同じならまだいいが、題名を変えて同じものを新書で出すというのは、ひどい。もっとも中島は、新書世界の慣行を知らなかったのだろうから、それと知って出した編集部が悪い。
 「改題」は、元の本があまり売れなかった時によくやる手だが、最近はあまりに頻繁に文庫化に際しての改題が行われて、読者を混乱させること甚だしいものがある。しかも、文庫であれば元本がある、という昔の常套も消え去り、文庫オリジナルなどというのがあるから、文庫版を調べて、それがオリジナルなのか、何かの改題なのか分からないことが間々ある。どうせ改題したって、売れなかったものが売れることはない。いい加減にしてほしいと思うのである。

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http://blog.goo.ne.jp/otowa1962/e/45f9d0d45b3a1e4a4ce02c0d40fd2dbf

はっきりいって、もう注意するのはやめたい!!!

やめなさい、瀬々さん。自動車が野放しに運行を許されていて、歩きタバコだけ禁じられるのは憲法14条違反です。法学者なのに、なぜその程度のことが分からないのですか。もし弁護士をつけてくれたら、私が歩きタバコへの課金や禁止は憲法違反だとして行政訴訟を起こしますよ。