昨日、第二回公判で、第一準備書面を陳述してきた。その一部を披露する。

5、被告は、「第3の1」の7行目において、「列車内での禁煙を求める声が強い」としているが、その証拠を示していない。また同「3の(2)」7行目において、「利用客の禁煙に対する要望が大勢を占め」としているが、これも証拠がない。また「4の(2)」1行目「禁煙に係る施策は、社会的に広く認められたもので」以下四行も、証拠がない。乙3号証の新聞記事は、社会調査としての価値がまったくないもので、「全面禁煙にしてほしい場所」を路上で質問したところ、列車内が五位になったというものであり、場当たり的に、しかも嫌煙家を中心とした街頭取材の結果に過ぎず、何ら一般の国民ないしは鉄道の利用客全体の意向を反映したものではない。よってまったく証拠としての価値はない。
 また「4の(3)」9行目、「特段の問題が発生することはなく、利用客に好評を得た」とあるが、後段は証拠がない。また同「(5)」、「利用客の意見をふまえ」もまた、証拠がない。
 かくのごとく、被告の答弁は、証拠のない「意見」に基づいた箇所が極めて多く、答弁の体を成していないと言わざるをえない。
6、また原告は、精神的疾患のために、喫煙ができない閉鎖空間に長時間閉じ込められることに耐えられないと主張しているが、これについて医師の診断書を提出する(甲1)。しかし被告は、国有鉄道の後身の大企業でありながら、そういった現象が本当にあるのか、精神科医の意見を聞いていないか、あるいは聞いていながら答弁書では隠蔽しているかのどちらかであり、不誠実な答弁だと言わざるをえない。
7、また被告は、9学会合同の禁煙指導ガイドライン委員会(以下「同委員会」)からの意見に基づいて禁煙措置をとったと主張している。乙4号証によると、同委員会は、車両内の粉塵を計測し、「資料3に示す厚生労働省の定めた分煙効果の判定基準を明らかに満たしておらず、健康増進法25条に違反していることを示しています」と記しているが、「資料3」は「分煙効果判定基準策定検討会報告書」からの抜粋であり、試案に過ぎず、「厚生労働省の定めた判定基準」ではない。従って当然ながら健康増進法25条に違反しているとは言えず、乙4号証はその核心部分に虚偽を含んでおり、一民間団体の錯誤あるいは虚偽によって作成された文書でしかない。
 被告は、厚生労働省から課長通達を受ける大企業であるから、これが真に「厚生労働省の定めた判定基準」であるかどうか、厚生労働省に尋ねれば回答が得られるはずであり、この報告書が虚偽または錯誤であることに気づいており、答弁書そのものにおいて、これが一民間団体の虚偽または錯誤に基づく「意見」に過ぎないことを敢えて言い落としたと考えられ、答弁書そのものに虚偽が含まれている可能性が高い。よってこの点、乙4号証は書証として無効であり、また答弁書のこの書証に関わる箇所は、虚偽あるいは錯誤である。
8、「4の(6)」において「原告は、健康増進法第25条を全面禁煙の義務化と見做し」とあるが、原告は「健康増進法第25条を全面禁煙の義務化と見做し」ている者の存在など措定していない。訴状は「健康増進法第25条を全面禁煙の義務化と見なすような異常な解釈が横行し」と書いているのであり、「見なすような」であって「見なす」ではない。被告が提出した乙4号証などは、事実上、「健康増進法25条を全面禁煙の義務化と見なすような異常な解釈」の好例であろう。被告はこの点について、訴状を誤読しており、すべからく訂正されるべきである。

 結論

 以上、被告の答弁書は数多くの証拠不全および虚偽ないし錯誤を含んでおり、とうてい正当な答弁とは言えない。よって原告の訴えは適正であり、その主張は認められるべきものである。

 なお相手方弁護士は企業弁護士として知られる西法律事務所、昨日出ていたのは富田美栄子という弁護士のようだ。この人の名前を検索したら、ちょっとおもしろいものを見つけた。
 
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 そういえば、渡部直己と対談した時、挨拶して開口一番、渡部氏、「タバコ吸ってもいいですか?」と、この私に訊いたよ。
 (小谷野敦

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http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20070916
また吉外が一人増えたよ。しかも絶望書店ー宮下整のやり口は、あんたが13日のエントリーで紹介している詭弁の典型だ。finalventよ、私は別に負けていない。ここで自著宣伝などはしないことにしているが、今月出る『日本売春史』を読めば、宮下のそれが重箱の隅突つきでしかないことが分かる。第一に宮下は『江戸幻想批判』に「こんなのばっかしやんか」と言っている。だが、「こんなの」はほかにどこにあるのか。むしろ、近世遊廓礼讃みたいなの「ばっかし」なのが現状である。
 1983-4年頃だったと思うが、『映画芸術』とかいう雑誌に白井佳夫を批判する文章が載った。白井が、なぜ邦画というのはすぐ大上段に天下国家を論じるのだろう、と書いていたのをとらえて、そんな邦画が今どれほどあるというのか、むしろなさすぎるくらいだ、これを読んだ人はひと昔前の今井正の映画でも想起して、そうだよなあ、と思うのだろう、と言い、白井を「デマゴーグ」と呼んでいた。
 「こんなんばっかし」と言った時点で宮下は間違っている。そして以後の議論においても、本質に関わりない点で私が誤っただけだということは、本を読むほどのまともな人間なら誰でも分かっていることだ。