http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20050710

 以上の日記の、

「『新潮45』が反論を載せなかったのは、その文章が支離滅裂だったからであるというのが、担当者の説明である」

 という箇所について、そのような事実はないと笙野から抗議が来たそうである。私はそう聞いたので、ないならないで削除する。
 それはいいが私はこの数日、笙野の文章を名誉毀損で訴えることなど想像していた。ただ現物がかなり意味不明なので成立しない怖れもある。
 もし笙野が私の文章を最近見つけたのなら、しかるべく返答してほしいものである。何しろ『群像』は私の文章など載せないだろうから。

 ところで私は、笙野が展開する「論争」に対しては、特に興味はなかった。単に、上野千鶴子が大庭みな子を評した言葉に対する笙野の言がおかしい、というところから話が始まったのである。しかし「敵か味方か」といった党派性でしかものが見られない笙野は、私が上野を擁護するのはおかしいから何か裏があると考え、小谷真理は笙野の盟友で、吉原真里はその仲間で、吉原が私を批判したから笙野批判を始めたのだ、と推測した。しかし実際は、笙野のけったいな上野批判がなければ、私はあんなことは書かなかったのである。この世には、党派性とは関係なく動く者もいるのである。「ドン・キホーテ」を名乗った笙野も、自分以上にキクソティックなやつがいるとは思わなかったのだろう。

 小谷野敦