音楽には物語がある(63)「或る日突然」と「Dear My Friend」  「中央公論」3月号

 「或る日突然」は、1969年に男女2人組のトワ・エ・モワが歌ってヒットした曲で、作詞は山上路夫(作曲・村井邦彦)である。私は当時小学校一年生だったし、その時はこの歌を聴いた記憶はなく、あとでマンガの中で人物が口ずさんでいるのを見たことがあるが、ちゃんと聴いたのは大人になってからだ。

 歌詞は、二人の男女が、これまで友達でいたのに、ある日突然、お互いに恋ごころを抱きあっていることに気づくという甘いものである。男女二人で交互に歌う形式で「いつかこうなることは、私には分かっていたの」などと歌うのが、どっちの気持ちなのか分からないように作ってある。ある意味で、これとは逆の設定を歌っているのが、Every Little Thing(ヴォーカルは持田香織)の「Dear My Friend」で、こちらは仲間数人組の中のある男女が、いつしか2人で会う機会が多くなっていて、男がある日突然、告白を始めるが、女のほうにはその気がなくて、振ってしまうという割と苛酷な歌なのだが、最初さっと聴くと気づかない。しかし気づくと、歌っているのが持田香織で、私は好きなので、持田に振られているようなややマゾヒスティックな快感すら覚える曲である。     私は長いことこれらの歌を聴いてきて、後者はいかにもありそうなことだが、前者はまずないシチュエーションではないかと思うようになった。

 男女が友達関係でいて、ある日突然、双方がお互いを好きであると気づくということは、ありそうもない。むしろ、友達関係でいた間に、どちらかがもう一人に恋愛感情を抱いているが、相手にその気がなさそうなので諦めているというのが普通ではなかろうか。どうもこの歌詞は「相思相愛」の幻想にとらえられている。

 一時期「セフレ」などと言われていた男女関係も、二人がともに「体だけの関係」と割り切ってのそれではなく、片方は恋愛感情を抱いているがもう片方はそれほどでもないまま肉体関係を続けているのをいうのだろうと私は考えていたが、間違ってはいないだろう。

 今年の大河ドラマで主演している吉高由里子が主演した「婚前特急」(2011)という映画でも、はじめ吉高は複数の男と関係しているアバズレ女の設定だったが、次第に様子がおかしくなっていって、その中の一番冴えない男と結婚してしまうというエンディングだった。

 金井克子が歌ってヒットした「他人の関係」(1973、有馬三恵子作詞、川口真作曲)は、それこそ「セフレ」かと思われるような冷淡な男女のセックス関係を歌っているようで、当時金井の手のアクションが面白かったので、小学生だった私も歌詞の意味も分からずそこだけ面白がっていたが、この歌は最後まで来ると、クールだったはずの女が、もし相手の男が自分を捨てて逃げるようなら必ず引き留めて見せる、という未練たっぷりぶりを見せる展開になっている。これは山口百恵の「Playback Part2」と同じ、冷たく見えた女が最後に普通の人情を持つことを示して聴き手の保守的な感覚を安心させる技術だとも言えるが、人間はそう冷酷ではないことを作詞家が知っているとも言える。もっとも「或る日突然」のケースだと、男女の間に友情は成り立たないのか、などと言われそうだが、むしろ話は逆で、同性異性を問わず、友情というのは恋愛の要素を含んでいると考えるべきだろう。「或る日突然」の作詞家は、それを知らなかったわけではなく、ちょっと奇を衒ってヒットを狙いに行って当たっただけだろう。

ケン・フォレット「大聖堂」が日本ではイマイチなのはなぜ

 先日、アメリカの作家ケン・フォレットが12世紀英国を舞台にして書いた大長編『大聖堂』について、これははじめ新潮文庫で翻訳が出たので、新潮社の校閲の人が原作のミスを見つけたという記事を読んだ。前から『大聖堂』は気になっていて、世界で二千万部のベストセラーだと言われていて、しかし長いので手をつけられずにいたのが、それで気になって、調べたらドラマになっているので、ドラマの第一回を観たがそれほど面白くはなかった。だが原作を借りてきて全三冊の上巻を読んだら面白かったのだが、周囲の人に訊いても、誰も「読んだ」という人がいないので、Xで投票にかけてみたら、読んだという人はごく少なく、大多数は「何それ、知らない」であった。

 それでも、もちろん普通の本よりは読まれているが、「ハリー・ポッター」に比べたらさしたる成功を収めていない。

 かつて渡部昇一は、アメリカの作家ハーマン・ウォークという、『ケイン号の反乱』で知られる作家が若い女を描いた『マージョリーモーニングスター』という長編を、初めて英語で読み通した小説だと言っていて、これは50年代にアメリカでベストセラーになり、日本でも翻訳されたのだが、ちっとも売れなかったようである。

 比較文学の世界では、「翻訳研究」というのが盛んで、たとえば日本文学がどのように英訳されたか、などを調べたものがあるのだが、私のようにカナダの大学で日本文学を学んだ人間には、さほど新味はない。これに対して四方田犬彦は、キティちゃんは世界的成功を収めたが、「ちびまる子ちゃん」は西洋では受けず、むしろアジア諸国マーケティングに成功しているということを言っていて、これは実証的研究の対象になりにくいのだが、私はむしろそっちのほうに面白みを感じる。つまり『大聖堂』はなぜ日本ではイマイチなのか。それは単に12世紀イングランドについて日本人が不案内だからなのか。まあ、そうかもしれないが、日本文学が源氏物語や川端から村上春樹までどう西洋に受け入れられたかを研究するというのは、どうも愛国的すぎて好きになれないところがある。むしろどういうコンテンツがどこで受け入れられ、どこでダメだったか、のほうが私の興味に合致するのである。

小谷野敦

川端康成と服部之総

大正15年末に、川端康成は伊豆の湯本館に滞在していた。そこへ大阪から梶井基次郎がやってきて、川端と知り合い、そこで肺病の養生をした。その時のことは『川端康成詳細年譜』(深澤晴美共編)に詳しく書いてあるが、服部之総は出てこない。

 しかし、京都精華大学斎藤光さんのXポストで、服部が「三十年」という随筆で、「私が川端と湯本館に来ているとき、彼(梶井)はこの湯川屋で肺病を養っていた」と書いているのを知った。この随筆の初出は『日教組教育新聞』1953年5月6日で、「明治維新史 付・原敬百歳』(新泉社、1972)に載っていて、『原敬百歳』という題でのち中公文庫に入っているが、どうもその時「6日」を「16日」と誤記したらしい。

 あと大久保典夫の『物語現代文学史 1920年代』(創林社1984)には、林房雄(本名・後藤寿夫)が「伊豆の湯ヶ島湯本館に出掛けた。そこに新人会員の服部之総(のちの歴史学者)がいて、同館滞在中の川端康成中河与一に紹介される。」とあり、これは『詳細年譜』にもあるが、服部の名は川端の文章にも、梶井の手紙にも出てこない。「川端と湯本館に来ているとき」という表現もちょっと疑問がある。

小谷野敦

N響アワーの芥川也寸志らの鼎談

N響アワー」という番組で、1985年から88年まで、私が大学三年生から大学院生だった時期に、芥川也寸志なかにし礼木村尚三郎の鼎談形式による司会がなされていたことがあった。芥川は文豪の息子で作曲家、なかにしは作詞家、木村は西洋史学者で東大教授という顔ぶれで、私は一年生の時木村の授業に出たことはあったが、大教室でマイクを使わず大声で叫ぶような授業をしていて、割とすぐ出るのをやめてしまった。

 だがこの三人はいかにも音楽に詳しくてダンディな三人という感じがして、当時私は、自分もこの人たちのようになりたい、という気持ちを抱いていたのを覚えている。もっとも芥川、なかにしは顔がいいので、私には無理だったろう。

 木村とは大学院へ行っても接点がなかったが、少しして60歳で定年になり、退官記念論文集みたいな『世界史を歩く』という本が、一般書みたいな感じで出て、見たら佐伯順子さんが寄稿していたので驚いた。修士時代に授業に出てでもいたのか、訊いたはずだが忘れてしまった。わりあい早く死んでしまったのは、あのマイクなしの大声のせいだったのかどうか。芥川も、父譲りの短命家系か、わりあい早く死んでしまった。

四方田犬彦「「かわいい」論」

2006年1月に刊行されてけっこう話題になった本だが、今回初めて読んだ。私は四方田という人に対して複雑な感情を抱いていて、大学院に入ったころ、面識のない先輩としてそのエッセイ集『ストレンジャー・ザン・ニューヨーク』を読んだ時だけ、素直に面白い本として読めたのだが、その後読んだ『貴種と転生』という中上健次論や、『月島物語』といういかにもおじさん受けしそうで実際に受けた本を読んだ時はさして感心しなかったし、『先生とわたし』という、私も英語を教わったことのある由良君美先生について書かれた本の時は、いくつか小さな事実誤認を見つけ、それなりにちゃんと書いておいたのだが、文庫化に際してそれらは訂正されていなかった。その頃には、著者の人格に対する疑念も持っていたし、嫉妬心も抱いていた。

 四方田は大阪箕面という、私が阪大時代に住んでいた背後の土地で育ち、両親が離婚して母方の四方田を名乗るようになったというが、その母方の家は土地の裕福な家系であった。そして東京教育大学付属駒場高校というエリート校で、一年の時に高校生の数学の教科書を全部読んでしまい、中央公論社の「世界の名著」を読破しようとしてここでつまずいた、といった秀才で、著書の数は莫大である。本来なら東大教授になって比較文学の主任になるべき人材だったろうが、「犬彦」という筆名や、そのマスコミ受けのする派手な振る舞いとで、そうはならなかった。これは東大比較にとっては損失だったといわざるを得ない。

 「かわいい」論」は、日本発かと思われる、キティちゃんや「セーラームーン」といった文化要素について、九鬼周造の「「いき」の構造」に倣って書かれた本で、いわゆる「日本文化論」だが、私が批判してきた日本文化論のような粗雑さとはとりあえず無縁で、日本と西洋だけを比較するとか、実はろくに他国のことを知らないとか、そういうことは四方田にはない。李御寧の『「縮み」志向の日本人』という怪しげな日本文化論を援用しているところだけは、四方田が世話になった芳賀徹先生と親しい人物の著作であるため、切っ先に鋭さがない。私は李については、ではゴジラや怪獣やウルトラマンは「縮み」とどういう関係にあるのかと問いたいし、四方田に対しては、ゴジラもまた「かわいい」と言われることをどう思うかと問いたかった。

 四方田が60歳まで勤務していた明治学院大と、秋田大学の学生にとった「かわいい」についてのアンケートは面白かった。もっともここでも、四方田は、「かわいい」は女子学生にとっては自分が投げかけられる言葉で、男子学生にとっては他者に対して投げかける言葉だと言っているが、私が若い頃には、男子学生が「かわいい」を自分について使ったり、使われたりすることは結構あったので、私よりひとまわり年上の四方田の意識がちょっと古いのではないかと思った。

 キティちゃんのことは四方田は一貫して「仔猫のキャラクター」としているが、実はキティは猫ではなく、自分で猫を飼っている。ヘンリー・ダーガーのことは知らなかったので勉強になった(しかしこういう博識ぶりが私の嫉妬心を刺激したりもするのだが)。最後は、日本製のソフトのうち、キティやセーラームーン村上春樹は無国籍的だから西洋でも受け入れられるが、「ちびまる子ちゃん」や中上健次は土着的なのでそうはいかないといったマーケティングの話になり、これはちょっと退屈で、ああこれはそういう海外向けマーケティング本として話題になったのか、と思ったりもした。

 西洋では日本のように未熟なものが評価されることはない、というのはおそらくヨーロッパのことで、アメリカでは事情は日本に近いだろう。第一、児童文学であるトルキーンがあんなに読まれたのはアメリカなのだし。この、アメリカと日本の相同性は、単に戦後の日米関係だけが原因ではないと思う。

 しかし最後のアウシュヴィッツで見つけたかわいい落書きの話は、いかにもアドルノのまねみたいで、私ならこういうことは書けないなと苦笑したが、まあ四方田の書くものはだいたい、私の書き方とは全然違っているのだ。

はじめて女の子の部屋を訪れた少年は、母親が運んでくる紅茶をすすりながら、女の子が見せてくれるアルバムを説明つきで眺めるという、退屈な義務を果たさなければならない」

 なんて、まるですべての少年がそういう健全な男女交際を経験するみたいなことを、いやあ私が書けるはずがないではないか。これじゃあ村上春樹だよ。

 私が好きなのはキティちゃん、赤毛のアンプリンプリン物語、シュシュトリアンであって、「セーラームーン」には全然興味がない。

小谷野敦

「男の恋の文学史 新版」における注について

「<男の恋>の文学史 改訂新版」(勉誠出版、2017)の「布川孫市」の章における注番号に乱れがあることが分かったので以下に訂正を記しておく。

本文の注2から4に該当するのは注の2および3で、本文の注5に相当するのが注の4,注の5は本文に該当がない。本文の注10に相当するのが注9、注11に相当するのが注10,
注12に当たるのが注11,注13に当たるのが注12と一つずつずれている。注14は該当する本文がなく、注18も正確には該当しておらず、本文の注18は注19に、注19が注20に当たる。

梅若マドレーヌ「レバノンから来た能楽師の妻」岩波新書についてのある感慨

著者はレバノン出身で、1958年生まれ。76年に戦火のレバノンを出国し、神戸のカナディアン・スクールで梅若猶彦と知り合い、のちに結婚した人で、姉も日本人と結婚して評論家の石黒マリーローズ。原文は英語らしく、竹内要江が訳している。

内容はまあ、途中でやめることはない程度には面白いのだが、ある感慨があったのは、梅若が新作能を上演すると、常陸宮とか清子内親王とか明仁天皇とか皇族が観に来るということが多く、それらには最高敬語が使われており、明仁にいたっては「明仁天皇陛下」とあったことで、これはもしかすると翻訳した竹内が書き足したものかもしれないが、風刺の意図なく「天皇陛下」なんて書いてある本が岩波から出るほど日本社会は右傾してしまったのだなあ、と思ったということである。「明仁天皇」で良かったと思うんだがね。

小谷野敦