アンリ・ロイエット「ドガ:踊り子の画家」

 私は創元社の「知の再発見」シリーズというのがけっこう好きなのだが、これなどに関して言うと、監修である千足伸行の名が、訳者の名より大きいというのは気に入らない。

 ヴァレリーの「ドガ、ダンス、デッサン」を読んで、ドガの伝記はないかと探したら見つかったのだが、もしかしたら日本でドガの伝記というのはこれしかないんじゃないかという気がする。

 結構私はこれを読んでドガが好きになったのだが、それくらいこれまでドガについてはちゃんと紹介されていなかったということかもしれない。だが、ドレフュス事件で反ドレフュス派になった反ユダヤ主義者だったというのは、これまでドガが敬遠されてきた理由でもあろう。長命を保ったが生涯独身で、かといって同性愛者でもなかったようだから、永井荷風みたいな人だと言う人もいたが、この本では娼婦と関係していたとか愛人がいたとかいうことは一切書かれていなかった。そのへん、もうちょっと掘り下げた本はないもんだろうか。

小谷野敦

大塚久雄『社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス』(岩波新書、1966)

図書館で借りてきたのだが、1992年の42刷だからロングセラーである。社会科学というのは、自然科学と並べてどのように科学として成立するかを説いた本だというので借りてきてみたが、四つの講演や講義を並べたもので、ですます調で分かりやすいように見えつつ、実に厄介な本だった。そもそもそういう論題なら、古代ギリシア哲学に社会科学の起源はあったかとか、東洋諸子百家はどうかとか、そういうところから話が始まるだろうと思ったら、もういきなりマルクスでありヴェーバーである。しかもいきなり「というのは、科学的認識である以上、それは因果性の範疇の使用ということと、どうしても関連をもたざるを得ない」とあり、この「因果性の範疇の使用」というのがまるで分からない。昔から哲学書を読むと、この「範疇」という語が出てくるところで何だか分からなくなるのであった。

 さらに先へいくと、「かといって、ヨーロッパ起源のものと根本的にことなった非ヨーロッパ的な科学的認識などというものはあるものではないでしょう」などと断言してあり、ぎょっとせざるを得ない。

 私だって大塚久雄がどういう人かは知っているが、とにかくここでは『資本論』は清書のように扱われていて、「プロ倫」はそれに次ぐ地位にあり、社会科学について根底から考え直そうなどという姿勢は微塵も見られないわけで、これではこういう人たちにあきたらない若者がカール・ポパーに走ったのも無理はないと思ったのであった。

小谷野敦

音楽には物語がある(62)財津一郎と「洪水の前」 「中央公論」2月号

 財津一郎が死去した。私にとっては財津というと、和製ミュージカル「洪水の前」(1981)が思い出される。クリストファー・イシャウッドの『さらばベルリン』(1939)という半自伝的小説(翻訳は中野好夫訳『ベルリンよ、さらば』角川文庫)の中の、魅力的なフラッパー女に焦点を当てた「サリー・ボウルズ」の章をジョン・ヴァン=ドルーテンが戯曲にした「私はカメラ」をもとに、ミュージカル「キャバレー」が作られ、それをもとにライザ・ミネリがサリーを演じて同題の映画になった。一方同じ「私はカメラ」を原作に、藤田敏雄と矢代静一が脚本を書き、いずみたくが作曲し、日中戦争直前の大連を舞台に翻案したもので、私が観たのは1982の、大学1年の秋に、NHKで放送された、財津、秋川リサ、松浦豊和、笹野高史らが出演しているもので、すっかり好きになった。すぐあとでNHK―FMでカット部分も含めた音声だけのものを放送してくれ、これは録音したし、さらに十数年あとでNHK―BSが扇田昭彦の番組で再放送してくれたのをビデオに録画できたので何度も観ている。

 『ミュージカル作品ガイド100選』(成美堂出版)にも載っているのだが、専門家の間での評価はそれほど高くないようだが、「キャバレー」とはだいぶ雰囲気が違っており、「サリー・ボウルズ」は、秋川リサが演じる不思議な女・徳大寺茉莉になっている。松浦豊和は前進座の若手からの抜擢で、新進作家・日暮隆夫の役。彼が大連へやってきて、ダンスホール「ペロケ」(オウム)に出入りして茉莉や謎の男(財津)と出会い、話が展開していく。笹野高史は老け役で知られるがここでは大連で知り合った日暮の軽薄そうな友人・安東として達者な演技を見せる。

 財津は、満鉄の大物のほかに、司会進行と、ロシヤ軍人、茉莉の父の弁護士、満洲浪人、憲兵将校と、違った役柄を巧みに演じ分け、歌やダンスも達者に演じており、秋川とともにこの舞台を支えているのだが、実はそこが問題で、この舞台は、再演も二度くらいはされたらしいのだが、その後は再演されていない。あまりにも財津と秋川がはまり役なので、替えが利かないのだ。財津の役は、宝田明坂上二郎も演じたというが、これは観ていない。(2022年にラサール石井で再演されたというがこれも観ていない)    これも専門家はあまり評価しないのだろうが、いくつかのナンバーは優れた歌で、秋川登場の際の「顔を見ないで」とか、秋川と松浦のデュエット「朋友(ポンユー)」とかもいい。笹野が演じる安東は、日本人を装った満洲人で、満洲人女性の張芳蘭に恋してしまい、ついに自分は満洲人だと打ち明けて、日本人と満洲系財閥の争乱から遠くへ逃げようと言い合い、二人で「山は高く谷は深い」をデュエットするのだが、これもいい。あと、テレビ放送ではカットされた、ロシヤ革命に参加する軍人を偲んで女が歌う「私の大尉さん」も良かったが、この上演を今再放送できるかというと、笹野が、女なんてのは押し倒してやっちゃえばいいみたいなことを言っているから、それも難しいだろう。

 財津の歌の女声バックコーラスで、当初何と言っているのか分からなかったのが、「没法子(メイファーズ)」という、中国語の「仕方がない」であることも分かったし、多分私はいずみたくの曲も好きで、しかし世間的には七〇年代の人として評価されてはいないのだろう。だから幻のミュージカルにならざるを得ないのだが、財津といえば「てなもんや三度笠」や「ピュンピュン丸」の主題歌もいいが、「洪水の前」に私は一票をあえて投じたい気分で今いる。

小谷野敦

 

七田谷まりうすのこと

七田谷まりうす(1940ー2021)という珍奇な名前の俳人のことは、あなたも「文藝年鑑」で見たことがあるでしょう。なだや・まりうすと読み、本名を灘山龍輔という、東大経済学部卒の財界人が、俳句を作る時に使っていた名前です。

 私の大学院での同期だった筑波大学教授・加藤百合さんの父上の加藤栄一(1933-)さんは、筑波大学名誉教授で、東大卒ですが官僚出身で、バリバリの右翼反共主義者で、統一教会員で、中川八洋らとともに、日本が共産主義に侵食されないよう、筑波大をその防衛線とした人物ですが、こないだまで「ニコニコ如来」の名でブログをやっていました。私は昔、この方が主催する『樹』という俳句雑誌に、娘さんの縁でいくつか随筆を書いたことがありました。

 さてこの加藤氏が、さる俳句の会で七田谷まりうす氏に会い、その珍妙な名前に感心していたころ、加藤氏は筑波大を定年になって常盤大学の教授をしていました。すると灘山氏こと七田谷さんが、自分も教授になりたいなあ、とおっしゃいました。加藤さんは、キミねえ、業績もないのに大学教授になろうなんてそれは無理な話だよ、と言いました。すると、加藤氏によると、灘山氏はたちまち、政治と経済について二冊の著書を上梓し、それによって常磐大学教授になったと、加藤氏は主張します。しかし、いくら私が調べてもその二冊の著書は見つからない、灘山氏の著書は七田谷まりうす名義の句集しかありません。

 そのことを加藤氏に伝えると「灘山さんはずぼらな性格だったから国会図書館に納品するのを怠ったのでしょう。常磐大学の図書館にはあるはずです」とのことだが、私は何も国会図書館だけ調べたわけではなく、この時点で、「ああ、そんな著書は存在しないのだな」と思いつつ、常磐大学の図書館を調べたが、もちろん、ない。これも加藤氏に伝えると、では七田谷さんに直接訊いてください、と言ってきたが、別に私はその著書を読みたいわけではなく、加藤さんの思い違いを正していただけなので、それきりになった。

ケン・フォレット「大聖堂」の「上」を読んだ

 ケン・フォレット(1949- )というアメリカの大衆作家は、前に「針の眼」というサスペンス小説を読んで、ドナルド・サザーランドが主演する映画も観たが、趣向が「鷲は舞いおりた」と同じな上、サザーランドが両方で似たような役をやっているのがおかしかった。しかし、まあ面白かった。

 「大聖堂」は、12世紀英国を舞台としたそのフォレットの小説で、1991年に新潮文庫から矢野浩三郎の訳で全三冊が出ている。のちこれまたサザーランドが出演するドラマにもなっているが、今では新潮文庫版は絶版でソフトバンク文庫から同じ形態で出ている。

 だが、私の周囲でこれが話題になったことはなかったので、読んでいなかった。先日、日本の校閲者が間違いを見つけたという記事を読んで、挑戦する気になって図書館で上巻を借りてきたが、その前にドラマ版の第一回の分をツタヤで借りて観てみたがあまり面白い感じはしなかった。

 それでも、小説に取り掛かると、そこそこ面白い。主人公はトムという40歳くらいの建築師だが、身分が低く、建築の仕事からあぶれて、妻と、14歳のアルフレッドという息子と、それより幼いマーサという娘とでイングランドを旅している。豚だけが財産だったのだが、その豚を盗人に盗まれ、追いかけて格闘するが負けてしまう。次の町でその豚を持った男を見つけるが、男から買ったというので、盗人を見つけて金だけ取り戻そうと、男を見つけ出して格闘し、殺してしまうが、財布には金がなかった。

 冬になって住む家もないのに、妊娠している妻が産気づき、野宿しながら男児を出産するが、妻は出血で死んでしまい、もう赤ん坊を養うことはできないからと、妻を埋めた上に赤ん坊を置き去りにして去る。だが、気が変わって男児をとりに戻るといなくなっている。だが、トムのところへ、エリンという不思議な女が、ジャックという幼い子供を連れて合流し、トムとエリンは事実上の夫婦になる。

 実は男児を連れ去ったのは近くの修道院の修道士フィリップで、ヤギの乳で赤子を育てていた。だがフィリップはキングズブリッジ修道院へ行くことになり、院長が死んだ時に、司教の息子ウォールランから、司教が死んだら自分を司教に推すという条件で支持を取り付け、新しい院長になる。ところがその直後、すでに司教が死んでいたことを知り、フィリップは「図られた」と思う。ここは割とわくわくするところだ。

 そのころ、ヘンリー1世王、つまり征服王ウィリアムの息子が死んで、嫡出の子供は娘しかなく、男子は船の事故で死んでいたため、ヘンリー1世の姉の息子のスティーヴンが即位する。ところが豪族のバーソロミュー伯が反乱計画をしていることを弟のフランシスから聞いたフィリップは、それを王スティーヴンに知らせる。

 さてトム一家はキングズブリッジ修道院へ来るが、仕事がないと知ってがっかりするトムを見て、ジャックは、大聖堂が燃えてしまえば父の仕事ができるだろうと思い、放火し、大聖堂は焼けてしまう。仕事ができたとトムは喜ぶが、トムとエリンが正式な夫婦でないと知ったフィリップは、エリンとジャックを追放してしまう。

 だがフィリップは、大聖堂再建の費用を王から出してもらおうと王宮へ出向くが、そこでは、バーソロミュー伯の領地を、バーソロミュー伯を倒した豪族パーシー・ハムレイがいて、領地を狙っていた。ウォールランも信用ならないと知ったフィリップは、ハムレイと語らい、領地を二人で二分することにして、これに成功する。

 ここまでがだいたい上巻だが、これは日本でマンガにしたらいいんじゃないかと思った。

小谷野敦

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売春婦差別について

 私は24年前、「セックスワーカーを差別するな」と呼号する澁谷知美に、そういうことを言うなら自分がアルバイトでもソープ嬢とかやってみるべきだろう、と言ったのだが、こないだふと、なんであんなこと言ったのかなと思ったのだが、あの当時は私は売春撲滅論者だったが、その後転向して売春必要悪論になり、売春防止法は改廃すべきだと思うようになったから、ともいえるのだが、あれは当時の澁谷が、松沢呉一アジテーションに載せられて浅野千恵とかをやたら攻撃したり、売春婦がなぜ蔑視されるかについて珍妙な説を唱えたりしていたせいもある。

 しかし今でも、日常的な差別、たとえば隣に住んでいる人が元売春婦だと知ったら、普通の人づきあいは無理だろうというくらいには思っていて、これは現状では避けられない。コロナの時の給付金とかの話になると、まず合法化が先だろうという話になる。

 それに私は近世から昭和初年までの人身売買による売春を文藝に取り入れたりするのはもう耐えられないのだが、戦後の、借金によるものとか知能が低いとかいう人についてはまた別のとらえ方が必要で、むしろそれを何とかするために一律売春防止法で禁止しているのはまずいという考え方である。

 あと当時はやった「売るのはいいが買うのはいけない」みたいなのは全くの詭弁というほかないが、買う男が一律に悪いとも思わない。だが、売春をすることは当人の精神衛生のためにはよくないとも思っていて、だから「必要悪」なのである。

小谷野敦