四方田犬彦「「かわいい」論」

2006年1月に刊行されてけっこう話題になった本だが、今回初めて読んだ。私は四方田という人に対して複雑な感情を抱いていて、大学院に入ったころ、面識のない先輩としてそのエッセイ集『ストレンジャー・ザン・ニューヨーク』を読んだ時だけ、素直に面白い本として読めたのだが、その後読んだ『貴種と転生』という中上健次論や、『月島物語』といういかにもおじさん受けしそうで実際に受けた本を読んだ時はさして感心しなかったし、『先生とわたし』という、私も英語を教わったことのある由良君美先生について書かれた本の時は、いくつか小さな事実誤認を見つけ、それなりにちゃんと書いておいたのだが、文庫化に際してそれらは訂正されていなかった。その頃には、著者の人格に対する疑念も持っていたし、嫉妬心も抱いていた。

 四方田は大阪箕面という、私が阪大時代に住んでいた背後の土地で育ち、両親が離婚して母方の四方田を名乗るようになったというが、その母方の家は土地の裕福な家系であった。そして東京教育大学付属駒場高校というエリート校で、一年の時に高校生の数学の教科書を全部読んでしまい、中央公論社の「世界の名著」を読破しようとしてここでつまずいた、といった秀才で、著書の数は莫大である。本来なら東大教授になって比較文学の主任になるべき人材だったろうが、「犬彦」という筆名や、そのマスコミ受けのする派手な振る舞いとで、そうはならなかった。これは東大比較にとっては損失だったといわざるを得ない。

 「かわいい」論」は、日本発かと思われる、キティちゃんや「セーラームーン」といった文化要素について、九鬼周造の「「いき」の構造」に倣って書かれた本で、いわゆる「日本文化論」だが、私が批判してきた日本文化論のような粗雑さとはとりあえず無縁で、日本と西洋だけを比較するとか、実はろくに他国のことを知らないとか、そういうことは四方田にはない。李御寧の『「縮み」志向の日本人』という怪しげな日本文化論を援用しているところだけは、四方田が世話になった芳賀徹先生と親しい人物の著作であるため、切っ先に鋭さがない。私は李については、ではゴジラや怪獣やウルトラマンは「縮み」とどういう関係にあるのかと問いたいし、四方田に対しては、ゴジラもまた「かわいい」と言われることをどう思うかと問いたかった。

 四方田が60歳まで勤務していた明治学院大と、秋田大学の学生にとった「かわいい」についてのアンケートは面白かった。もっともここでも、四方田は、「かわいい」は女子学生にとっては自分が投げかけられる言葉で、男子学生にとっては他者に対して投げかける言葉だと言っているが、私が若い頃には、男子学生が「かわいい」を自分について使ったり、使われたりすることは結構あったので、私よりひとまわり年上の四方田の意識がちょっと古いのではないかと思った。

 キティちゃんのことは四方田は一貫して「仔猫のキャラクター」としているが、実はキティは猫ではなく、自分で猫を飼っている。ヘンリー・ダーガーのことは知らなかったので勉強になった(しかしこういう博識ぶりが私の嫉妬心を刺激したりもするのだが)。最後は、日本製のソフトのうち、キティやセーラームーン村上春樹は無国籍的だから西洋でも受け入れられるが、「ちびまる子ちゃん」や中上健次は土着的なのでそうはいかないといったマーケティングの話になり、これはちょっと退屈で、ああこれはそういう海外向けマーケティング本として話題になったのか、と思ったりもした。

 西洋では日本のように未熟なものが評価されることはない、というのはおそらくヨーロッパのことで、アメリカでは事情は日本に近いだろう。第一、児童文学であるトルキーンがあんなに読まれたのはアメリカなのだし。この、アメリカと日本の相同性は、単に戦後の日米関係だけが原因ではないと思う。

 しかし最後のアウシュヴィッツで見つけたかわいい落書きの話は、いかにもアドルノのまねみたいで、私ならこういうことは書けないなと苦笑したが、まあ四方田の書くものはだいたい、私の書き方とは全然違っているのだ。

はじめて女の子の部屋を訪れた少年は、母親が運んでくる紅茶をすすりながら、女の子が見せてくれるアルバムを説明つきで眺めるという、退屈な義務を果たさなければならない」

 なんて、まるですべての少年がそういう健全な男女交際を経験するみたいなことを、いやあ私が書けるはずがないではないか。これじゃあ村上春樹だよ。

 私が好きなのはキティちゃん、赤毛のアンプリンプリン物語、シュシュトリアンであって、「セーラームーン」には全然興味がない。

小谷野敦