作家は「賢者」か?

中学生のころから、ふと疑問に思い、今も引っかかっていることがある。それは、「作家」つまり小説家を、時おり世間が「賢者」のように扱うことがあるということだ。私が子供のころ、コーヒーのCMに出ていた遠藤周作北杜夫に、そんな感じがあったし、そのころベストセラー作家だった五木寛之にもそんな風があった。

 その後も、司馬遼太郎とか村上春樹とか、ある種の作家に、普通の人より賢明な、賢者としての役割が期待されるという場面がいくらもあった。だが、彼らは要するに「小説というフィクション、時に事実そのものである私小説やドキュメンタリーを書く人」でしかない。そして、ベストセラー作家といっても、西村京太郎や東野圭吾などには、あまりそういう役割は期待されない。純文学でも、大江健三郎にはそういう役割はあまり期待されず、大江や井上ひさしは、護憲派の広告塔みたいになってしまう。そういう政治的なことを言わない作家が、もしかするとやや保守的な、「賢者」の地位を得て、読売新聞の「人生案内」の回答者になったりする。

 作家の中には、半村良浅田次郎のように、様々な職業を経験してきた人がいて、それゆえに賢者ポジションになる場合もあるかと思うが、必ずしもそうでもない。かといって大学で博士号をとったような作家が、必ずしも「賢者」になるかというとそうでもない。むかし『ビッグトゥモロウ』で「三ピン一スケ」と呼ばれた、渡部昇一谷沢永一堺屋太一深田祐介みたいな、成功の秘訣を語るような人は、司馬や村上のような賢者とはちょっと違うし、経済について語りたがる村上龍も、あまり賢者扱いされないようではある。時には今村昌平みたいな映画監督が「賢者」になることもある。日本近代史上最も賢者扱いが激しいのは、もちろん夏目漱石だが、この人は色々な職業を経験したわけではないし、それどころか神経症もちで子供に暴力を振るう人だったが、生きていた時から現在にいたるまで堂々たる賢者ポジションである。いったい、作家というのはそんなに偉いのか、といえば、もちろん全然尊敬されない作家というのもいる。不思議なことである。

小谷野敦