が死んだのは1991年で、そのあとになってベストセラー詩人になった。神谷光信のノートでは、2002年に島田雅彦が『現代詩手帖』で陣野俊史と対談して、都築響一が「「夜露死苦現代詩」で取り上げることになる相田みつをについて、聞くに堪えない言葉遣いで嘲笑している。谷川俊太郎も「私の好きな詩人は谷川さんと相田みつをさんです」と言われると「一番こたえる」と都築との対談で語っているが、相田を侮り蔑む視線はない(文庫版『夜露死苦現代詩』所収)。」としているが、私の知り限り、最初に相田みつをを公然とバカにしたのは、小田嶋隆である。1997年11月の『諸君!』に「「相田みつをは『便所の神様』」を書いてバカにしたのであるが、それを広めたのは池澤夏樹で、同じ11月28日の「朝日新聞」文藝時評で、枡野浩一の『どれみふぁんくしょんドロップ』などの短歌を称揚しつつ、「うっかりすると相田みつをになって五百万部売れてしまいかねない。毒の代わりに甘味料の入った自問自答・自己完結のいやらしさ。枡野の魅力はこの危うい幅の広さにあると言っておこうか。
相田が書いたのは知的怠惰の標語である。世界は広大無辺なのに、ご近所を一回りして戻っただけですべてわかった顔をする。そう言ったところで、ご近所しか見ていない人々には通じない。小田嶋隆のいらだち(「相田みつをは『便所の神様』」「諸君」十一月号)もわかるけれど撲滅の実効はない。対抗して「もう少し くふうしろよ にんげんならば なつき」なんて稚をてらった字で色紙に書いたりして。
そう、あの字が大事。今やビジュアルは決め手だ。枡野の本にもオカザキマリの絵がついているし、武者小路実篤の色紙にもかぼちゃの絵があった。枡野や相田ではビジュアルがメッセージを引き立てていたが、逆にメッセージの毒をビジュアルがなだめているのが西原理恵子の『ぼくんち』(<1>と<2>、小学館)。」
と書いて、とうとう最後には枡野と相田を並べてしまった。