アリエル・ドルフマン「死と乙女」

ふと目についたので図書館から借りてきたのが、昨年8月刊行の岩波文庫だが、これは1991年ころ書かれたチリの作家の戯曲で、世界的成功を収め、日本でも上演されたらしい。ウィキペディアでは「アリエル・ドーフマン」として立項されており、1942年生まれだから81歳になる。ピノチェットの軍政の傷跡を、二人の男と一人の女だけの舞台で表現しており、40歳前後の女パウリナは、軍政下で監禁され強姦された経験があり、弁護士ヘラルドはその夫。50歳前後の医師ロベルト・ミランダは軍政の協力者でパウリナを拷問した男らしく、民政回復後に先の二人がロベルトを拉致監禁して拷問するという筋立てである。題名はシューベルト弦楽四重奏曲を示しており、この音楽がこの劇の換喩になっているか。なおこの作品は1994年に青井陽治訳が劇書房から出ており、当時上演に使われたのはこっちだろう。こちらは英訳からの重訳かもしれないが、文庫版の飯島みどりは解説でこの翻訳には触れていない。

 ロマン・ポランスキーが映画化していて、シガニー・ウィーバーが主演して邦題は「死と処女」だが、今ではDVDも廃盤のようだ。2019年に宮沢りえ段田安則らで上演されたらしい。

 しかし、読んでいて、ちょっとクセのある翻訳を感じた。「からっきり」などというのが出てくるが、これは間違いではなくて「からっきし」のほうが派生語らしいが、この訳者(飯島みどり)は言葉遣いに独特なところがある。またシューベルトの音楽も、上演に際して流すと効果的かもしれないが、それ以上のものではないし、劇自体がそれほどの名作とも思わなかった。最後に、夫婦二人が舞台を観ているという入れ子構造が暗示されて終わる。

 驚いたのは、やたら長大な「訳者解題」で、何だか独特の美文で書かれていて、頭にするっと入ってこない。書き手の自己陶酔ばかりが感じられる。「洗礼名」といきなり出てくるのは、最初に「砕けた月」という題名の小説として構想したのを「死と乙女」という題名にしたことを指すらしいが、いきなりである。途中からハロルド・ピンターとドルフマンの縁について訳者は酔ったように語り続け、「やや周辺にも風呂敷を広げた紹介をお許し願いたい」とくる。「ファンタといえば日本ではオレンジ色の清涼飲料水を思い浮かべる」と書いてあるが、あれはグレープのもあったはず。

小谷野敦

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