大正十年(一九二一)六月二十三日から二十五日の三日間、追分の帝国大学キリスト教青年会館で演劇が催された。中心となったのは清野暢一郎(一八九六‐一九七六)で、俳優としては北村喜八(一八九八‐一九六〇)に、まだ無名の岡田嘉子(一九〇二‐九二)が参加した。演目は、レ井”ン(レヴィン)作、清野訳「詩と散文」、北村作「狂人を守る三人」、秋田雨雀作「二十一房」であった。清野はこの年東大英文科を卒業したところで、北村は東大英文科の学生で、卒業は三年後になる。この公演には、東大の二年生だった川端康成(一八九九‐一九七二)も、裏方として参加していた。川端はこの年数えで二十三、前年、東大英文科に一高から進学し、その春には、石濱金作、鈴木彦次郎、今東光、酒井真人とともに第六次『新思潮』を創刊し、二号に掲載した「招魂祭一景」が好評を得ており、かねて菊池寛、久米正雄といった文壇の中堅作家の知遇を得ていた。さらに、以前本郷壱岐坂のカフェ「エラン」の女給で、岐阜の寺に引っ込んでいる伊藤初代を妻にと思いこみ、友人の三明永無とともに岐阜の寺を訪ねて結婚を申し込み、新居まで用意しながら、土壇場で逃げられ、失意のどん底に落ちるのが、その十一月である。
その翌年には、さしたる創作も出来ず、ダンセイニ、チェーホフ、ゴールズワージーなどの短いものの翻訳、菊池の連載「慈悲心鳥」の代筆などで糊口をしのぎ、英文科の授業に関心を抱けなかったことから鈴木とともに国文科に転じ、ために一年卒業が遅れて、郷里の親戚からの仕送りも断って、貧苦の生活を送ることになる。人々との関係もみなおかしくなったと日記に書いている。
したがって、この六月の試演会は、川端にとっては、得意のちょっとしたピナクルにあった時期である。のち、「文科大学挿話」で、この時のことを題材にしているが、それは、東大で初めて女子の聴講生が認められた年だったというところから、まるで敗戦後のような、リベラルな雰囲気の中で、帝大生と女子聴講生の恋愛がスケッチ風に描かれている。もっとも、この帝大生は川端自身ではないらしい。
さて、「詩と散文」は、翌大正十一年(一九二二)十二月にロゴス社から出た、清野訳の『現代猶太戯曲集』に入っている。イディッシュ語で書かれた、米国在住の文学者たちの作を集めており、清野は英訳から重訳している。ショロム・アッシュの「復讐の神」ほか二作、レオン・コブリン「生命の秘密」、ラヴィノヴィッチ「彼女は医者と結婚せねばならぬ」、そして「詩と散文」である。「復讐の神」だけは The God of Vengeance; Drama in Three Acts, by Sholom Ash, translation by Isaac Goldberg, (Boston, The Stratford co., 1918.)からの訳で、他は Six Plays of the Yiddish Theatre by David Pinski, Perez Hirschbein, Z. Levin, Leon Kobrin, tr. by Isaac Goldberg, PH.D.(
Boston, John W. Luce and company [c1918])から訳したものである。
巻頭には、石橋智信(一八八六‐一九四七)、小山内薫、秋田雨雀による序文が載っている。石橋はのち東大教授となる旧約聖書学者である。『秋田雨雀日記』には、この上演を観に行った旨記述がある。
このうち、ラヴィノヴィッチはショレム・アヘイレムの別名で、ほかアッシュ、ピンスキー、コブリンはいいとして、レーヴィンだけは容易に見当たらない名である。どうやら、Zebullon Levin(一八七四- ) であるらしい。レーヴィンはリトアニアに生まれ、十七歳で米国に渡り、職を転々として植字工になって二百数点の戯曲を書き、「詩と散文」はニューヨークのペレズ・クラブの懸賞に当選して上演された、とある。
登場するのは二人、グルーピンという二十二歳の詩人と、その不倫の相手であるマイヤーの妻アンナ、二十八歳である。一幕もので、イースト・ブロードウェイのグルーピンの室でのあいびきに現れたアンナに、グルーピンは詩の言葉をささやいて賞賛する。ところがアンナは、二人の関係を夫に打ち明けたと言い、夫と別れてグルーピンと一緒に暮らすと言う。貧乏なグルーピンは、驚き、がっかりして、ぼくたちの恋愛の美しさは失われたと嘆く。するとアンナは、今言ったのは嘘だと言い、グルーピンに別れを告げる。グルーピンはアンナの作り話を「小説」と呼び、男が詩で女は散文である、というのが、この題名の意味するところとなっている。
さて川端は、この劇の上演では会計係をやった程度だったらしいが、昭和三年四月『若草』に「詩と散文」という短編小説を発表している。間に七年ある。ここでは、前田春三という詩人と、旧姓を島木という小説家の佳代子の夫婦が登場する。つまりここで、男は詩で、女は散文なのだ。一般にはこれは、当時の川端の貧しい暮らしぶりを、この女性作家にことよせて描いてあるということになっている。インクがなくなったので、糊の蓋を裏返しにしてそこに少なくなったインクをたらし、ペンを寝かせてインクをつけて書くとか、佳代子が新聞の連載小説の切り抜きを持って、それを質草にしようと質屋へ行って断られる話とかである。
春三には前の妻がいて、その妻は「詩」だとある。男が詩で女が散文だというアイディアを、レヴィンの戯曲から借用したものだが、さほど深い内容的関連はない。
川端は、ほとんど戯曲を書いたことがない。戦後になって、大倉喜七郎の依頼に応じて、西川流の舞踊の台本として「船遊女」と、引き続いて「ふるさと」「古都舞曲」などを書いただけである。『雪国』の島村が舞踊評論家となっているのもあだしごとではないほどに、舞踊に入れ込んだこともあったが、演劇そのものではないし、『狂つた一頁』という映画の台本を共同制作したこともあったが、それだけである。
昭和三年には、川端はいくらか生活も仕事も落ち込んだ状態にあった。大正十五年に、それほど好きでもない女となりゆきで結婚して、塵労に苦しんでいた川端は、青春時代へのノスタルジーも手伝って、題名も同じ「詩と散文」を書いたのではあるまいか。
(比較文学の雑誌に投稿しようかと思ったが短すぎるので断念)