エドワード・ベラミーの『かえりみれば』という未来小説がある。1886年に米国で出されたもので、かつては岩波文庫にも入っていた。その当時米国では未来小説がはやっていた。これは、一人のアメリカ人男が、2000年にタイムスリップする話で、社会主義的な未来像が描かれており、ベストセラーになった。
今読むと、当然面白いところがあり、クレジットカードという、国家が管理して各国民が持っているものがあるのだが、それが段ボールでできていて、記録は穴をあけてなされる。
この世界では、恋愛結婚が当然とされており、ダメな男は結婚できない。そのため劣った遺伝子は淘汰され、人間は優秀になっているというのだが、おそらく1886年には米国でも恋愛結婚が理想とされたのだろう。ところがベラミーは、本当に気づかなかったのか、都合が悪いと思ったのか、結婚できない女のことは書かず、ただダメな男と結婚する誤った勇気をもった女に触れているだけである。もしベラミーの考えるような恋愛結婚が一般化したら、大量に、醜い、ダメな男女があぶれることになったろう。
まあ現代のミシェル・ウエルベックでも、セックスがなくなったら人々は退屈してしまうということに気づかないのだから、しょうがないか。
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先日、「エンドレス・ワルツ」を観た流れで鈴木いづみの小説を読んでいたら、男女の会話があって、サルトルの名前が出たところで、「フランソワーズ・サガンと別居結婚している人でしょ」と言っていた。小説技術的には、相手方が「違うよ。ボーヴォワール」と訂正するところだが、それもない。鈴木いづみにとっては、この人物が間違っていることは自明だからなのか、それとも…・…。