先日手紙をよこした方が、私の本を全部読んだわけではないがと断った上で、近松秋江がなぜいいのか理由が書いてない、と書いていた。そういえば以前も、立川談志が天才である、と書いて理由が書いてない、というレビューがあった。
まあそれは、あなたはいいとか天才だとか思わないのですか、と反問するしかないのだが、一般的には、読んだり聴いたりすれば分かる、ということであろう。その上で、俺は秋江のめそめそしたのは嫌いだとか、金井美恵子先生のように「たちかわだんし」と誤読した上で、嫌いだと言うのは、それはまあ仕方がないのである。青木るえかさんも談志師匠は嫌いなようだが、まあだいたい女の人には談志は嫌われる。
これは逆の例をあげればいいので、ナボコフの『ロリータ』がいかにたくらみに満ちているか(ところで私はこの「たくらみに満ちた」という形容句が嫌いなのだが)ということをいくら若島正が一冊分使って論じても、私には、「あのー、それのどこが面白いんですか」と『ケイゾク』の中谷美紀みたいに言うほかはないので、秋江や談志の場合はもっと単純であるから、読んだり聴いたりしてそう思わないなら、いくら説明しても意味ないだろうと思っているのである。
それと、これまで秋江について人と話すと、みな「いいねえ」と言う。私小説は許さん、というような人とはもちろん私小説の話なんかしないから、私小説をいいと言う人が、である。それで、別に説明する必要は認めなかったということか。