ダンテか藤村か

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120101
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20121127
 以上、議論になっているのだが、十川先生には葉書を出さなければと思いつつ、公の場で議論したいなあと思っている。すると新潟大の三浦淳先生からも、こんなメールが来た。

 30ページで、芥川が『或阿呆の一生』の中で「『新生』の主人公ほど老獪な偽
善者に出会ったことはなかった」と述べていることに関して、これは 島崎藤村
の『新生』ではなくダンテの『新生』ではないか、と書いておられます。
 芥川はエッセイ『侏儒の言葉』でも、「「新生」読後」という見出しで、「果
して「新生」はあつたであらうか」と書いています。この場合も前後に ゲーテ
やスウイフト、トルストイ、ストリントベリらの西洋文学者の名が出てくるの
で、小谷野さんの説にも一理はあるのですが、逆にいずれの場合も、なぜそれ
ならダンテの名を出さなかったのか、という疑問が生じます。つまり、近い場所
にいる同時代の作家なので当てつけのような書き方をしたのではないか、とい
う疑問ですね。
 私も今回ちょっと調べてみたのですが、芥川には『大正八年度の文芸界』とい
う時評的な文章があって、そこで島崎藤村の『新生』についてかなり厳 しい批
判を行っています。
 「叔姪の恋愛と云ふ大問題でありながら、「新生」の主人公の自己批判は、余
りに容易なる憾がある。従つてこれを肯定しようとする主人公の心もち も余り
に虫が好すぎる観なきを得ない。忌憚なく云へばこの観照上の甘さが、今日の文
壇をして藤村氏を遠からしむる所以ではあるまいか。」
 (筑摩書房、筑摩全集類聚・芥川龍之介全集第4巻、昭和46年、235ページ)
 この全集の索引を信じるなら、芥川がダンテの『新生』について書いている文
章はないということのようです。

 三浦先生の読書日録のほうに書いてあるかな、と思ったのだがなかった。なぜ「偽善者」になるのか、という問いは三浦先生にも発したいのだが、私は芥川が藤村にあてつけたとしてもいい。ただそのためには、芥川がかなりいやらしい性格の持ち主であるということにしなければならなくなる。まず自殺して後に残し、誰も聞けない状態にしてしまったこと。また藤村は、姪との情事を正直に告白したのに、芥川は数ある情事について、おぼめかす形でしか書かなかったということ。つまり「偽善者」は芥川のほうではないかということで、これらを認めてくれたら、これは藤村だということにしてもいいと、思っているのである。