指揮者に哲学など要らない

 『新潮45』の一月号に、八田利一という人による小澤征爾批判が載っていたのを読んだ。この八田利一という名は、国会図書館で検索すると一冊カメラの本があるが、これは「としかず」と読む別人らしく、「りいち」のほうは『新潮45』で年一回くらい、クラシックの演奏家批判を書いていて、石井宏の変名、というのが定説らしい。「ハッタリ」という洒落か。
 さて私は、小澤については、特段の感想もない。というか、クラシック音楽演奏家に対して、一般的に関心がない。あれは、他人が作ったものを再現しているだけだからだ。落語の場合、自分で演目に工夫を加える落語家も多いし、うまい下手はある。歌舞伎の場合、新作以外は型というものがあるが、役者の柄とか見た目というのがある。楽器演奏家であれば、やはりうまい下手、好き好きはあるし、グレン・グールドのように独自の演奏をする人もいれば、見た目の美しい女性演奏家というのもいる。
 しかし指揮者というのは、指揮台の上で踊るバーンスタインみたいなのを楽しみにする、なんてのも変だし、一定水準のオケがやれば、だいたい水準以上の演奏になる。だから、アバドとかマゼール以後は、さしてスター指揮者というのも出なくなっている。デュダメルにしても、ボリビアで、全員が立ち上がって「マンボ!」と叫んでいた時は良かったが、北米や欧州でオケを振ったら普通の指揮者でしかない。 
 さて八田は、小澤のN響との紛擾も、遅刻を繰り返した小澤が悪いと言う。ウィーン国立歌劇場音楽監督になったのは、日本人の観光客目当てだという。それはともかく、小澤批判のある点が気になったのだが、八田は、小澤が西洋音楽の背景にある思想、哲学などに疎い、英語も碌にできない、と言う。英語くらい出来るだろうが、だいたい指揮者がなんで思想だの哲学だのを理解していなければならんのであるか。よく「N響アワー」なんかで、指揮者とか演奏家のインタビューがあって、あれこれ喋っているが、これが実につまらない。死んだシノーポリはよく哲学の話をしたが、指揮者はいい演奏をしてくれればいいのであって、いくら深遠な哲学を語ったって演奏がダメではダメである。さらに八田は、小澤の演奏は、正確、軽快であるが、深遠、重厚といったことがないと論難している。正確、軽快で大変けっこうではないかと私は思う。
 この辺は、どうも石井宏ではないような気がするのだが、石井は、本名での主張と、変名で言うこととを使い分けているのだろうか。

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 教えてくれる人があって、『批評のトリアーデ』(1985)における蓮實先生の発言。

蓮實 まず「私小説」以外の小説(傍点)がはたしてあるのか。原理的な問題としてではなく、具体的な作品として。たとえば丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』、あれは「私小説」的なものから可能なかぎり遠ざかろうとしているけど、小説としては零だと思うわけです。『笹まくら』にしても『たった一人の反乱』にしても読んでいるとつらくなってくるんです。西欧小説にたいする後進国的な思いこみだけで書いているでしょ、このひと。ヨーロッパのほんの一時期の小説類型に殉じようとする特攻隊精神というか、文学はもっと自由でいいわけだ。彼の場合も、「私小説」的に書いた『横しぐれ』だけがちょっとおもしろい(一同賛同)。むろんよいものが出てくれば褒めるのにやぶさかでないし、ぼくとしては「私小説」なるジャンルにべつにこだわっているわけではない。 (P32)

 「一同」は、糸圭秀実渡部直己、江中直紀(この人その後どうしたんだろう)。
 私は『笹まくら』は、まだいいのではないかと思っている。

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中央公論新社の120年』巻末の年表を『中央公論社の八十年』と比べると、後者に載っている分が簡略化されているのに気づく。両方揃えないといかんってことですね。