陳腐な合唱

 ライターズ・ジム著となっているが、見崎鉄という人が書いた『謎解き「世界の中心で、愛をさけぶ」』を図書館で予約してようやく手に入れた。はじめのほうを読んで、そうだそうだと膝を打つ。
 これがベストセラーになった当時、『いま、会いに行きます』などと併せて、なぜこういうものが売れるのか、というのでどこだったか新聞が話を聞きにきた。記者氏はいきなり、こういう陳腐なものが売れて、みんな驚いたわけですよね、と言うので、私は、みんなって誰ですか、と問うた。記者氏はびっくりして、いや、こんな、ありきたりな物語が…などと言う。もちろん、ベストセラーになったのだから、買って読んだ「みんな」ではないわけで、知識人がみんな、というような意味だろう。しかし私が「誰がびっくりしたんですか」といったことを繰り返すので、記者氏はとうとう「あの、お話を伺いに来たのですが・・・」などと言い出し、私はしょうがないと、説明を始めたのだが、私はこの小説が、世間で言うような通俗的なものだとは思わなかった。しかし世間(マスコミ)は、なぜこんな陳腐な物語が売れるのだろう、という、それこそ陳腐な「物語」を作り上げる。
 しかし、仮に「セカチュー」が陳腐だったとしても、通俗な書物が売れることなど、大昔から変わらずに続いていることで、「驚く」には値しない。「冬ソナ」が受けたのも驚きなのだろうか。
 見崎氏は、私と同じことを考えている。批判、揶揄の大合唱こそが陳腐ではないかと言い、丁寧に「セカチュー」を読み解いている。便乗本といえば便乗本だが、言っていることは正しい。
 石原慎太郎渡辺淳一は、大衆からは支持されているが、知識人からは、1998年ころから、もう十年以上も批判され続けている。私は、そういう陳腐な大合唱には、加わりたくないのである。
 そう言ったら、内田樹みたいなやつが、お前も村上春樹批判の合唱に加わっているではないかなどと言うかもしれないが、冗談ではない。私は村上春樹批判の、先頭に立って指揮をしているのだ。

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小田実が1968年に『文藝』に発表した中編「冷え物」は、在日朝鮮人被差別部落を扱ったものだが、どういうわけか単行本に入る前に、反差別の意図が十分表現されていないという批判および糾弾が起こった。むしろべ平連内部のことだったようだが、結局これは、1975年に、小田による説明文と、土方鉄による批判文とを併録して、薄い本として刊行された。ところでここで、小田が「エタ」とカタカナで書いているのに対して、土方は、差別のひどさを伝えるために漢字にすべきだと書いている。これには驚いた。おそらくその後、漢字のほうは後から充てられたものだという説が出て、規制されていったのだろう。

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黒岩さんは、千枚を超える堺利彦伝を書いてそのうち400枚を削ったという。その仕事に三年かけたという。とてもじゃないが、せっかちな私にはできないことだ。だが、その間生計はどうしていたのだろう、と思う。文筆一本の人が、そういう仕事をする、ということは、考え直さなければならない問題を含んでいる。本来なら、大学から給料をもらっている学者こそが、そういう仕事をすべきなのだろうが、大学教授などする人は、世渡りがうまいのか、そういう、売れそうもない仕事はしないで、却って売れる雑書を量産する。むろん、まじめにやっている学者もいないことはないが、今は大学の仕事が多忙で、じっくり構えた仕事ができなくなっている。
 となると、人文系のちゃんとした仕事を、いい条件でできる人というのは、資産があるか、夫のいる女とか、まあ妻がたくさん稼いでいる男、ということになってしまう。暗然たる思いである。