川上未映子はいじめっ子の味方か?

 毎度言う通り私は新刊書を進んで読んだりしないので、今回論争の都合上『ヘヴン』を読んでみた。かねて、これはいじめっ子側に立っているとか賛否両論の小説だったが、またどういうわけか擁護するほうも狂気じみていた。私は毎度言う通りいじめっ子は死刑にしてもいいと思っているくらいだから、読むと不快になりそう、ということもあって敬遠していたのである。
 さて、ここで物語の筋を説明しつつ、私の感想をさしはさむことにする。いじめられているのは中学二年の男の子で、その子の語りで進み、誰も名前を呼ばないから「僕」でしかない。場所は東京郊外らしく、何百メートルもある並木道を通って行くというから国立であろう。また公立中学らしく、時代は90年代のようだ。
 いじめの中心人物になっているのは、二ノ宮という、小学校から主人公と同じ学校の、成績がトップクラスの男、それに百瀬という、同じくらい成績のいい男である。しかし、成績のいい奴がいじめの中心にいるということは、私の知る限りではない。主人公は斜視で、それがいじめの原因だと自分では思っている。
(いじめっ子的人物が優等生だという設定は、漫画ではよくあるのかもしれない。雁屋哲が阿月田伸也といった頃の原作で池上遼一が描いた『ひとりぼっちのリン』がそうだった)
 さてこの主人公に、手紙が来るようになる。コジマとだけ呼ばれる女子で、これもまた女子の間でのいじめに遭っている。全体に薄汚い感じがする子で、父親と生き別れになっている。主人公のほうも、母が実の母ではないなど、複雑な家庭である。
 主人公はコジマとたびたび会うようになるが、このコジマという女子は、呼び名も変だし、容姿などはぼんやりしか分からない。太ってはいないようだ。二人はいじめについても話し合ったりするが、中途で主人公が、リンチとも言うべきいじめに遭う場面がある。
 おかしいのは、これだけいじめられていたら、教師が気づきそうなものだということだが、教師の影はきわめて薄い。全体として、リアリズムを用いるつもりは作者にはないらしく、なかんずく、主人公がいじめによる怪我のために病院へ行って百瀬に会って交わす会話、特に百瀬の理屈が、ドストエフスキー大江健三郎の影響を感じさせる。百瀬はまるで宮台真司のような男で、いじめをして罪悪感を感じないのかという主人公の問いに、買春するオヤジが自分の娘が売春したら嫌がるのと同じで、人のことなんか考えない、とか何とか、壮大な理屈をこねるのである。
 そしてコジマは、いわばキリストである。自分たちはいじめに逢いつつも反撃したり復讐したりしようとしない、その弱さが強さなのだ、とかまたよくわけの分からない、とはいえキリストみたいなことを言う。
 現代の知的世界では、私のような復讐肯定論は嫌がられる。キリスト教的世界観が支配しているからである。吉本隆明は、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せというのは、そうすれば相手がいちばん嫌がるからだ、隠微な復讐なのだと説いた。それがニーチェのいうキリスト教発のルサンチマンである。滝沢克己はこれを積極的に評価し、それこそまさにキリスト教の、弱者の強者への抵抗の武器だとした。ニーチェルサンチマン説を批判したシェーラーの側に立つ人が、吉本に対してどう言ったのかは知らない。
 もっとも実際のキリスト教徒は、コンスタンチノープルを取られたらウィーンも差し出す、などということはしなかった。
 さて小説へ戻ると、主人公は時々オナニーをするが、何かおかずを使っている様子はない。当初はコジマのことなど考えずにしていたのが、中途でコジマに手をとられたりして、その後、コジマを思いつつオナニーしていることに気づいて愕然とする(なお文中では「マスターベーション」と書いてある)。
 クライマックスは、雨の日、公園で主人公とコジマが会っていると、そこへ二ノ宮、百瀬のほか、コジマをいじめている女子生徒までが現れて、お前らのことは前から気づいてたんだよ、セックスしてるんだろう、ここでやってみせろよと言いつつ、主人公の服を脱がせ、下着姿にしてしまう。すると突然コジマが、すっくと立ち上がると、次々と服を脱いで全裸になる。しかしその姿は詳しくは描写されない。二ノ宮らは驚き圧倒されるが、しまいにコジマを水たまりの中に突き飛ばし、大人たちが騒ぎに気づいて、コジマを毛布にくるんで連れ去ってしまう。
 コジマは最後の頃、あまり食べないようにしていると言っており、その理由も曖昧だが、それが主人公がコジマを見た最後だったというから、死んでしまったのかもしれない。そして主人公は、斜視を手術で治す。コジマは、その目が好きだと言っており、手術に反対していたから、これはコジマに対する否定になる。
 つまりこの小説は二通りに読めて、コジマ礼讃の物語とも、主人公がコジマのキリスト教的思想を否定する物語とも読めるのだが、やはり前者の印象が強いため、いじめっ子に都合のいい論理として、多くの人の嫌忌を招いているのだろう。
 コジマは、徹底して「女の子」なかんずく、思春期の女子には見えないように、まるで両性具有であるかのように描かれている。それはやはりキリストを想定しているわけだろう。だからやはり、コジマを中心とした物語になっていて、私は結局、不快感を感じる作だった。
 むろん、売れて諸家絶賛、藝術選奨新人賞受賞なのだから、芥川賞受賞後の歩みとしては大成功である。
 だが、これは純文学というより、宗教小説ではあるまいか。西洋語に訳したら人気が出るかもしれない。もし作者がコジマを否定したいのであれば、これでは書き足りない。しかし、本式にコジマを否定したら、「涙がとめどなく流れる」などという感動小説にはならなかっただろう。だいたい、主人公が最後に泣いたりしてはいかんのだ。『羊をめぐる冒険』とか『ゴールドラッシュ』になってしまう。(ちなみに私は柳美里については、オリジナル版『石に泳ぐ魚』がいちばんいいと思っている)
 何だか難しいことを言っている人が多いようだが、これはやっぱり、コジマ寄りにしか読めないし、復讐を否定するという、インテリ世界の約束ごとにもたれかかっていると言うほかないでしょう。宗教の宣伝ならそっちでやってください、というところか。
 まあそのことより、『ヘヴン』を批判すると狂ったようになる人が多いことのほうが、気持ち悪い。これってそんな「問題作」かぁ? しょせん、つくり事じゃないか。トルストイドストエフスキーもつくりごとである。
 要するに百瀬は「大審問官」で、コジマはムイシュキンである。
 あ、忘れていた。この小説にひとつだけいいところがある。「看護婦」と書いてあることだ。

                                                                          • -

1982年に『ブックマン』という雑誌が創刊された。『英語青年』なみの薄い雑誌で、古典志向、創刊号は岩波文庫特集だったと記憶する。ところが『本の雑誌』つまり椎名誠が、この雑誌を激しく攻撃し、いたんだこういう奴は、俺たちが外でサッカーなんかやってると、みなさん本を読みましょう、とか言う奴が、もしこういうことを続けたら殴りに行くからそう思え、と書いたのである。
 私は要するに『本の雑誌』ってそういう、反権威を標榜して、その実、冒険小説、推理、SFを好む雑誌だと思っていたから、呉智英さんがこの雑誌の編集部で吉田満の『戦艦大和の最期』を誰も知らなかったと言って驚いていた時も、別に、そうでしょあいつらは、という感じで驚かなかった。