各新聞、村上春樹擁護派の連中が大活躍で書評しているが、小野正嗣の能天気なまでの礼賛ぶりには驚いた。それなら君ももう少し読まれる小説を書いたらどうかねと言いたくなるが、まあどうでもいい。
 「週刊朝日」でいつの間にか連載が始まっていた東浩紀が、新作はおなじみの世界と言いつつ、内田ジュのごとくに村上春樹は正当に評価されていない、と言い、しかし売れるものだから無視するしかなかったと、またいい加減なことを書いている。村上春樹を批判しようとしても、マスコミが載せてくれない。とはいえ私は徹底批判しているのであって、そういう虚偽を垂れ流すのはやめてもらいたいものである。まあ、ポストモダンというのは、嘘をついてもいい思想らしいがね。

http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090617/1245167190
 なんか東が答えている。もっとも私の名前は出さないという河野多恵子的姑息さを伴って、ではあるが。もちろん、東は村上春樹を評価しようとしているのだが、私はそれに反対である。私が批判したのは、次のような文章だ。

90年代に入っても、主流の批評家は村上の存在を無視しています。いまでもそのようなひとはいます。(中略)(春樹作品は日本近代文学の伝統の中で異質である。しかし)その村上こそが日本文学を支えてしまった。多くの文学者は、その逆説から目を逸らすことしかできなかったのです。

 第一に「無視」などしていない。蓮実先生も柄谷行人渡部直己糸圭秀実も私も「批判」している。東にとっては「批判=無視」なのか? 「目を逸らす」も同様である。
 第二に「逆説」とは何か。日本近代文学の伝統と異質というのは、具体的に何をさすのであろうか。まさか大塚英志のごとくに、私小説がそれだ、とでも言うのだろうか。それなら、後藤明生金井美恵子村上龍はなぜ、上記批評家たちから評価されるのか。いったい東が、かつてのソルジェニーツィンラノベ以外に、日本近代文学をちゃんと読んだことがあるのか、考えたことがあるのか、私は疑っている。日本文学を村上春樹が支えているというのは、世界的に読まれているということだろうか。すると、アメリカ文学マーガレット・ミッチェルによって支えられていたこともあり、英文学はコナン・ドイルアガサ・クリスティーによって支えられているわけだ。
 第三に「90年代に入っても」って、今は90年代でしょうか。そうでない以上「います」じゃなくて「いました」だろう。大塚英志とよく似ている。それにまた反論ブログで、春樹批判をしようとして文壇から干された、というようなことは100%関係ない、と言っているが、恐ろしい話である。ある作家を批判しようとして干されたなどということは、東が「文芸評論家」だと名乗るなら、重大問題ではないか。
 断わっておくが、村上春樹を絶賛したのは福田和也。90年代の主流の批評家ではないのであろうか。

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知らない奴が多いようなので言うが、私の天皇制についての論考は『なぜ悪人を殺してはいけないのか』に入っているものであらかた言い尽くされている。
 私は一時期、ミクシィの「天皇制いりません」コミュに入っていたのだが、戦争責任がどうとか言いだす奴がいたので、抜けた。