ニーチェの無意味 

どういうわけかいつもハガキでブログなどの感想を言ってよこす大阪の山田氏より、私が死刑廃止キリスト教の影響だというが、ではなぜキリスト教が支配的だった西洋中世には死刑があったのかと問うてきた。
 なるほど、もっともな問いだ。しかし私は、キリスト教死刑廃止の単一の原因だとはたぶん言っていない。もちろんそれは、近代的な人権思想が根底にあるのだ。だが、死刑廃止論者とか復讐否定論者の言論は、キリスト教を背景にしていると、私は言っているのである。
 なおキリスト教道徳が一般に広まったのは18世紀の啓蒙思想以後であると、下の永井の本にあった。そうだろうと思う。

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川上未映子永井均を愛読しているというのは知っていたが、『へヴン』はそれで永井の影響を受けているというのだが、私は永井をあまり読んでいなかったので、図書館で四冊くらい借りてきたら、河出文庫から昨年出た『道徳は復讐である』というのは河出から前出た『ルサンチマンの哲学』の文庫化で、ただ巻末に川上との対談がついている。この対談は『へヴン』の雑誌発表前に行われているから、この作品の話がないという、いさかか間抜けなものになってしまっている。
 さていざ読んでみると、ルサンチマンというのは、要するに奴隷道徳であると。そしてまた道徳の起源であると。しかしそれを非難するニーチェもまた、それを道徳の立場からしているので、やっぱり道徳の中にいると、そこまでは分かる。
 講談社現代新書の『これがニーチェだ』の冒頭には、ニーチェの思想はまったく世の中の役に立たない、ニーチェを読んで元気になるような者は、すでにニーチェに批判される状態である、などとあって、私はその通りだと思う。
 実は宮台真司ニーチェ的であるということは前にも書いたが、ここで永井が書いている文章の「ニーチェ」を宮台真司に置き換えても十分成り立つのである。それで『へヴン』の百瀬のモデルは宮台だということになるのだが、これを指摘した人はいるのかな。
 もっとも、それゆえニーチェは偉大だと永井は言う。私はそうは思わないのである。たとえばいじめを行うやつがいて私がその犠牲者で、そいつが百瀬のようなことを言ったら(場合によっては言わなくても)、もし処罰されないなら私はそいつを殺す。もちろん、実際には殺してはいないわけだから、お前、そういうことを言うが殺したらあとでオレステス的な良心の呵責に苦しむぞと言う人がいるかもしれないが、それはまだしていないのだから分からない。何しろお化けがいるとかUFOがいるとか言う人もいるわけで、それなら俺の目の前へ出してみろというのと同じである。
 だからそういう点で、永井の語り方というのは私になじまないし、ニーチェが偉大だとも思わないのである。『ルサンチマンの哲学』では、右の頬を打たれて左の頬を差し出すというキリスト教道徳に対して、なぜそれならせめて何もしないくらいの強さを持てないのか、と書いてあるが、私は、実際にそんなことをキリスト教徒がしてきたかどうかすら分からないし、そもそも関心がない。しかも、ニーチェを読んで云々は永井にも言えるのであって、永井均などに関心を持つ者はすでに永井の批判のうちにある、とも言えるのである。