告白の代償(5)

 私は、追い詰められた気分になった。そして、遂に「あれ」を持ち出そうと考えたのである。自分にも同性愛者の友人がいる、ということを言って何らかの防御にしようとしたのである。
 九〇年代、米国あたりの、いわゆる「現代批評」系の学術会議では、こういう滑稽な風景がよく見られた。白人の男で異性愛者であるお前が、たとえ正しくともそういうことを言うのは許されない、と「糾弾」にあった学者が、懸命に、母方の祖母はユダヤ人で、となんとか自分の「弱者」性をアピールしようとする、というようなバカバカしい政治的パフォーマンスをしたりするのである。
 私の頭は怒鳴り続ける伊藤悟のためにぼうっとなり、頭の中で、前に書いたような事情にもかかわらず、記憶の混淆が生じ、機会を与えられると、次のようなことをしゃべりはじめたのである。
 「さっき伊藤さんがテレビのお笑い番組の話をしましたが、だいたい人というのは、集まってテレビを観たりすると、笑いを求めますね。笑いというのは時に人を傷つけるもので…」
 というような話で、それで終わらせれば良かったものを、続けて、
 「私も以前、ある友人からレズビアンだと打ち明けられて、その時、吐き気を感じて三日くらい止まらなかったことがあって、これはホモフォビアではないかと思いました。しかし、だからといってそれを隠してもしょうがない、と思うのです」
 つまり、同性愛が気持ち悪いという感情を、押し隠してもそれは差別の解消にはならないのではないか、と言ったつもりなのだが、もちろん、沸騰しきっている伊藤悟が、こんな発言で収まるはずがなく、
 「それは、関係性の問題でしょう! あなたがそういうことを言って受け入れられるかどうかの問題で…」
 と、怒声が続いた。いや、何も彼女にそんなことを言ったわけではなくて、と私は言いたかったが、問答はあやふやのうちに終わった。会場には伊藤公雄が戻ってきていて、司会ができなかったことを詫び、締めくくった。
 それから、会場からの質問を募ったが、不思議と、伊藤宛の質問が多く、私には、上野千鶴子ゼミの者だという学生から、私が上野が、恋愛におけるもてない男女のことを問題にしていないと批判していたのに対して、そういうことも論じている、というような反論があったが、その学生は三回くらい「おやのさん」と呼び間違えたが、そう思い込んでいるらしく、私はマイクで二度ほど「こやのです」と訂正したが、あちらも興奮していたのか、音がかぶさってしまって、遂に伝わらなかった。
 『もてない男』が出るのはまさにその翌月のことだったが、実際にはそれ以前に「京都新聞」紙上で、上野のいう「男」はもて男のことでしかあるまい、と私が批判し、翌日上野が反論するという一幕があったのである。私はその学生に、どこでですか、と問うたら、これこれで、こんな風に、と言ったから、そんなの全然ダメです、もっとはっきり言わないと、と答えた。
 もやもやした雰囲気のうちに会議は終わった。なおこの会議の模様は、その際進藤がアナウンスした通り、録画されているので、詳しいやりとりはほぼ正確に再現することができる。
 私が壇から客席へ降りると、犬山という私大の院生の男が、私を男性問題の集まりに誘ったが、私は疲れ切っていて、ちゃんと応対できなかった。しかし伊藤公雄も加わって夕飯に行くと言い、女性詩人を誘ったら来るというので行くことにした。私と伊藤悟の間の空気はもちろん微妙なものがあって、永田と藤木は、しきりに伊藤悟を食事に誘っていたが、伊藤は固辞しており、私はそれを横目に見て、来るわけはない、と思った。
 近くの食堂で、永田、藤木、伊藤公雄、伊藤の弟子たち、女性詩人と食事をした。伊藤の弟子は阪大の院生たちだったが、私の伊藤批判に同意しているようだった。伊藤氏は、私への反論を書いたのだけれど雑誌で載せてくれなかったと言って、紙片を渡してくれた。私は、酒乱の同僚やらセクハラ事件やらが嫌で辞めることになった、と話した。むろんその時は、首都圏で次の職を探すつもりでいた。
 だから、その時はいい雰囲気で、それが散会すると、私は女性詩人が泊まっている千里中央の駅前のホテルへ行き、ラウンジでしばらく話した。この詩人のことはまた別途書かなければならないが、そろそろ帰ろうか、と立ち上がって「××さんの部屋は?」と私が訊くと、「×階です」と答えた詩人は「来ます?」とにこやかに言ったが、私は一瞬ためらって、けれど以前に決めた方針に従って、いや、帰る、と言い、そこで別れて、どことなく、シャンゼリゼ通りが凱旋門へ向うような形をした、千里中央の駅へ向って歩いて行った。
 伊藤悟は、「相方」とともに「すこたん企画」という事務所を持っており、シンポジウムの時もこれを宣伝して、「すこたん、で検索して下されば出てきます」と言っていたが、当時の私は、まだインターネットをやっていなかった。私のパソコン参入は遅く、大学へ勤めてすぐ、予算があるからというので研究室に買ってもらった、マッキントッシュの黒い小さなパソコンで、その当時はメールはできたが、インターネットはしておらず、後に試みてできず、これはメモリーが足りなくてできないのだと気づくありさまだった。
 それから五日ほどして、片田さんから、伊藤悟がネット上で私を非難している、という報せが入った。九八年の暮れのことで、ネットで非難される、ということに私は実感がなかったが、進藤からも連絡があり、主催の学生たちの間で、メーリングリストというもので、私を非難する者、擁護する者、藤木を非難する者などの論争が持ち上がっているということだった。
 当時は、しばしば新聞などに、URLというものが載ってはいたが、私は、そんなものをいちいち入力するのはさぞ面倒だろうと思っていたし、検索というものも知らず、インターネットというものがのちのちどのような展開を見せるのか、まるで知らなかった。だから、片田さんから教えられたURLをメモして大学へ行き、研究室に新しく配置されていたパソコンに入力してみたのだが、だいたいインターネットにつながっておらず、見られなかった。それでも、ネット上での攻撃というものに実感がないから放置しておいたら、片田さんから、これから大学を辞めて職を探そうという人がこういうことを書かれているのは問題ですからと言って、プリントしたものを送ってもらったように思う。
 そこには「『レズビアンと出会って三日間吐き気が止まらなかったと言ってのけたパネリスト」と題されて、私の発言が非難されていたのだが、前後の文脈を無視して、「(嫌悪感から)吐き気が止まらなかった」などと、私が言ってもいないことが書かれていた。あと私が禁煙と書かれた会場で喫煙していたことや、レジュメを作らなかったことも非難されていた。最後に伊藤は、私は傷つき、誘いを断って、大阪の友人と食事をして帰京した、と書いていた。
 後年の私なら、激怒して伊藤悟に連絡するところかもしれないが、何しろインターネットもできない当時であるから、片田さん宛てにメールで反論および弁明を書き、片田さんがそれをメーリングリストに送ってくれた。

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うーん大河ドラマめちゃくちゃだなあ。石田三成が縛られて夜中放置されていたりするかね。福島正則は出てくるのに加藤清正は全然出ないし。常盤貴子が「夫」とか言ってたけど、そんなこと、言うかね。

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私はいっぺん佐渡へ行ってみたいと思っている。太宰治の「佐渡」に描かれた、船で佐渡へ近づいていくと、あちら側にもう一つの山がぼんやり見えるという、その情景を見てみたいのである。しかし、上越新幹線が全面禁煙だからこれは使えない。寝台特急は未だ喫煙可なのでそれを使い、中央線で長野まで出て、そこからは少し我慢して日本海へ出て、寝台特急トワイライトエクスプレスを使うというのはどうだろう。それで『喫煙者佐渡紀行‐JR東日本との戦い』と題して出す。

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著書訂正
私小説のすすめ』
51p、ヘミングウェイの「イスパニア戦争」→「第一次世界大戦
 どうも、ヘミングウェイには興味がなくて…。お恥ずかしい。
 (小谷野敦