告白の代償(6)

 二日ほどたって、研究室へ進藤が訪ねて来て、弱った、という話である。私の反論は伊藤悟にも送ったと言い、メーリングリストをプリントアウトしたものを見せてくれたが、一方で「小谷野さんの弁明は友人の片田さん宛になっているから、甘えているところもある」などというのもあり、碌に私のことも知らず、ましてや片田さんのことなど知らない学生がまた無礼なことを言うものだなあと思ったが、これから以後、フェミニストの女子学生などのこうした無礼さはあちこちで見られることになる。何といっても、正義は我にありという姿勢だからタチが悪い。あるいは私が、素朴な疑問を代表して質問したのだ、と書いたのに対して「それならその辺を歩いているおっさんを連れて来たっていいでしょう」などと悪意たっぷりに書いているのもいた。その辺のおっさんが「ホモフォビア」などという言葉を知っているだろうか。
 しかし一方で、これは男子学生らしいが、
 「伊藤悟がああいう瞬間湯沸かし器的な人であることは一部ではよく知られており、それを知らずに呼んだとしたら小谷野氏も気の毒だ。伏見憲明のような人なら良かった」
 といったものもあった。進藤は、「これは要するに解放同盟の糾弾と同じ構造になってしまっている」と言った。当時の私が、そういう事柄には今よりずっと疎かったのは、言うまでもない。その後いろいろ同性愛関係の文献を読むうちに、自分が同性愛だと打ち明けられて、そんなこと気にしないよ、と答えたのに、私が大変な覚悟で打ち明けたのにその簡単な受け答えはひどい、と怒ったとか、そういう話はあちこちに出ていた。フーコー橋本治が言うように、同性愛者の要求は遂に、みなが同性愛になればいい、というところへ行きかねないものなのである。
 私は進藤に、私の返答を見て、伊藤さんは何と言っていたんですかと訊くと、新藤は答えにくそうに、
 「がっかりした、と言っていました」
 と言った。伊藤悟としては、ひたすら謝ってもらう以外に満足する道はなかったのだろう。
 最終的に伊藤公雄がまとめて、声明文を出した。そこでは、私が「差別発言ととられかねない発言をした」とあったが、最後は「伊藤悟氏にも小谷野敦氏にも結果として苦い思いをさせたこと」を詫びるとあり、私はことを収めるために我慢した。伊藤悟のサイトには、付記がついて、小谷野氏の喫煙は神経症のためであった、また司会者の側から悪役的なものを演じてほしいとの要請もあった、と書かれた。これから再就職しようという私に関してこういうことを書くのはどうか、と思ったが、伊藤公雄の文章が出て、この日記自体が削除された。
 だが、ことはそれで収まらなかった。私はその騒動最中の九九年一月に『もてない男』を刊行し、三月に阪大を辞めて東京へ帰り、十月に元同僚と結婚して遠距離婚となった。東京で非常勤講師をしながら、本が売れたので文筆のほうでも収入がけっこうあった。私が新しくパソコンを買って、ちゃんとインターネットを始めたのは、その六月か七月だった。当時は電話回線を使ってのダイヤルアップだったからすごく時間がかかり、検索エンジンもいくつもあったが、自分の名前で検索をしたら悪口だらけだったので不快になり、あまりそういうことはしないようにした。「2ちゃんねる」というものがあるのを知ったのも、その頃赤川学に教えられてのことだった。
 阪大には、女性問題研究会というサークルがあって、私の同僚だったジェリー・ヨコタが顧問をするフェミニズム団体だった。私は在職中、一度だけジェリーさんに誘われてその集会に行ったことがあったし、ヨコタ村上のセクハラ事件があった時は、その会の代表の女性三人に話をしたこともあった。その一人が、のちにパレスティナイスラエルへの抗議デモに加わっていて被弾した清末愛砂さんだった。
 しかしその頃、そのサークルが出して教授会で配布されたという文書に、「学内で開かれた男女共同参画のためのシンポジウムで、本学教員から同性愛差別発言が出るなどの事件があり」と書かれており、明らかに私のことだと思われた。しかし、名前が書いてあるわけではないから、いったんは無視することにしたが、そういう話は、ネット上でもあちこちに見られた。
 その団体の代表はその頃、吉野太郎という、言語文化研究科の助手がやっていた。私は退職間際に、二度、当時院生だった吉野に会ったことがあるが、フェミニストで、伊藤悟の事件について、にやにや笑いを浮べながら、私に向って「ナイーヴだな、と思いました」と言ったものだ。あるいはその前に、生協の送別会でも吉野に会っている。これは、生協で発行している小冊子に、私が一年ほど連載をしていた関係で、豊中生協の書籍部の代表だとかいう依岡さんという、人柄の素敵な女性と、四十がらみの理事という男と、生協の仕事をしていた男女の院生が出席した。ところがこの、仮に山中としようか、理事が盛んに私にからんできた。山中は、私の同僚だった英語学者の成田という教授からひどいことを言われたことがあるそうで、何やら教員を恨んでいたらしいが、成田というのは教員内でも嫌われものだった。ちょうど『もてない男』が売れている頃で、学生からサインを求められて書いていると、覗きこんだ山中は、嫉妬でもしたか、「小谷野さんってなんで字が下手なんですか」などと、初対面だというのに無礼なことを言うし、酒に酔って、隣にいる女子学生に「俺、あんたとセックスしたい」と言いだすし、私に向っては「小谷野さんはまだ苦労が足りない」などと、実に酒癖が悪い。私は酒に酔ってこういうことを言うやつが大嫌いで、言いたいことがあるなら素面で言うがいいと思っている。
 依岡さんが何度かこの理事氏を窘めたのだが、やめず、「『もてない男』が…」などとなおからもうとするので、遂に依岡さんが「やめなさい!」と叫んだ。私はそこで、もう帰りますと言って外へ出た。しかし私がいちばん不快だったのは「セックスしたい」であり、それを聞いている女子学生が、内心どう思っているか知らないがこちらも酔っていて、何やら白痴的ににやにやしていたのが、いかにも頽廃的な場の雰囲気で、嫌だった。数日後に生協へ行くと依岡さんが来て、山中が謝罪したいと申しております、と言うから「死ねと言ってください」と言ったが、謝罪文を手渡された。
 さて話は吉野に戻るが、私は吉野に宛てて、あの文章に出てくるのは私だろう、とメールを打ったが、それはお返事できません、という返事が来た。私は妻に頼んで、吉野と話してもらった。その結果、電話をくれということだったので、電話をすると、何やら官僚的な口調で、女性問題研究会代表としてお話しですか、旧知の大学院生としてお話ですか、などと言い、院生としてならお話します、と言って、私の発言が問題発言であるゆえんを説明し始めたが、むろんそれは水かけ論でしかなく、彼らの「運動」は、解放同盟のやり方が「同和は怖い」という意識を植え付けたに留まったのよりなお悪かった。
 解放同盟は、被差別部落出身者名簿を刊行するような悪質な業者を追い詰めるといった功もあげたが、同性愛に関しては、日本では、何の成果も挙げられなかったのである。単に九〇年代から数年間、人文学の一部で、何やら男の異性愛者であることは罪悪であるかのごとき倒錯した論文が流行しただけで、その後ほとんどしぼむように消えてしまった。それと、私は吉野に、例の生協の理事が「あんたとセックスしたい」と言った時の話をしたが、吉野は「私はあの女性にまず謝ってほしかったですね」などと言うのだが、それならなぜその場で例の理事に抗議しないのか。実に卑怯なやつだと思った。

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そういえば由良君美先生にも英語を習ったのだが、どうもこれも、著書を読んでいない。のちに『言語文化のフロンティア』が文庫になったので読んだが、由良先生はチョムスキーではなかったし、今では中身はだいぶ古くなっているはずだ。
 だいたい、高橋康也、由良、高山宏といった人たちを、読書人は、演劇の人とかアリスの人とか幻想文学の人とかいろいろ「面白い」人だと思っているだろうが、専門は英国ロマン派の詩である。英文科では、シェイクスピアかロマン派の詩をやるのが一番正統的なのである。東大英文科には中世の人はいなかったが、慶応には西脇順三郎以来の中世英文学の伝統がある。

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ウィキペディアの執筆基準は矛盾だらけである。たとえばある作家について「作風は硬質な文体で人間の深層をえぐり」などと書いたら、まずこれ、客観的事実ではないわけ。かといって、どこかから持ってきたら著作権侵害だと騒ぐし、かといって執筆者が自分の意見を書いたら「独自研究」になる。「高い評価を受けている」なんて書いてあるのは、みんなおかしいのよ。せいぜい「評論家の誰それ氏は彼についてかくかくと言っている」とか「何々賞を受賞」とか書けるだけ、のはずなのだよ。
 さらに最近では「特筆性」についてうるさく言う奴が出てきた。これを辞典の項目として立てるだけのものがあるか、ってことなのだが、それこそ客観的な特筆性基準なんてあるわけがない。それは要するに誰かの意見でしかないわけで、じゃあたとえば私がブログで「寡作だが重要な作家である」って書いてそれをレファレンスにしたら特筆性の根拠になるのかよと。それこそ依然として一冊の著書もない鎌田なんか絶対特筆性ないと思うがね。
 (小谷野敦