告白の代償(3)

 それから三年の月日が流れ、私も三冊目の本でようやく浮かび上がることができたが、湯沢夏生とは、何となく疎遠になっていた。夏生は「フェミニスト」だったし、私は次第に、非学問的でプロパガンダめいたフェミニズムに対して批判的になっていたから、避けられないことだったかもしれない。
 私は例の酒乱の同僚との関係が悪化して、翌年の三月で阪大を辞めることにしていた、その十二月に、「ジェンダー・フリーを考える若者の会」とかいう、大学内のちょっとした政治的集団の依頼で、シンポジウムに出ることになった。コーディネイトしていたのは、人間科学部の助手の進藤良太だった。進藤は私の研究室を訪ねて来て、その概要を話した。それは、最近の若い人はフェミニズムに関心を持たなくなっているようだがそれはなぜか、という論題だった。司会は教授の伊藤公雄がやるらしく、伊藤は近年「男性学」というものを提唱し始めていて、しかしそれはフェミニズムの焼き直しめいており、私はそれに対して、ではもてない男は買春をしてもいいのか、といった問題が論じられていない、と批判していた。
 パネリストは、『道徳派フェミニスト宣言』を出したばかりの滋賀大学の永田えり子、DVのサヴァイヴァーとして知られ、その後選挙に出馬したりした藤木美奈子、ゲイ解放運動の伊藤悟に、私だった。この中で私がちゃんと著書を読んで好意を持っていたのは永田くらいだった。伊藤悟は、台本も失われてしまったNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」を、子供の頃観ながら克明にメモしていて、そのノートをもとに復元され、NHKでリメイクされ、その台本はちくま文庫から全十三巻で刊行されていた。その方面でまず知られた、東大卒だったが、この人がゲイであることは、私はずいぶん前にひょんなところから聞きこんでいた。私の大学一年の時の級友だった男が予備校で教えていて、伊藤もそこで英語講師をしており、それで聞いたのである。
 伊藤は、はじめは東大合格体験の本、またひょうたん島関係の本、英語の入門書など十冊以上の著書を出していたが、九三年に『男ふたり暮らし』を上梓して、以後同性愛解放の活動家になっていた。その当時四十五歳で、私より九つ年上だった。しかし私は、彼が同性愛に関してどういう姿勢の人であるか、よくは知らなかったし、その性格も知らなかった。
 シンポジウムの前に進藤から電話があって、相談をした。どうやら主催団体の間で意見の食い違いがあるらしく、「フェミニズムはなぜ嫌われるか」という総題に反対する人がいて、「『ダンジョサベツ』なんてカンケーない?」になったという。さらに、司会をするはずだった伊藤公雄が、その間用事ができてできなくなり、自分が司会をすることになった、と言った。「どうしてですか」と訊くと、「申し訳ないです。ダブルブッキングというやつで…。始めと終りには伊藤もいるはずですが…」と、進藤は言った。そして進藤は、伊藤悟さんが浮いてしまうのではないか、と懸念していると言い、だから小谷野さんにジョーカーになってほしいんです、と言った。私はそれを聞いて何だか得意になって、ああ任せてください、などと言った。その時の私が軽薄だったのは否めない。
 レジュメを提出するよう言われていたのだが、私は出さなかった。というのは、その当時すでに学会発表などで、もはや「レジュメ」(要約)とはいえない、細かな原稿を作ってきて配布し、それをただですます調に直して話すだけという風潮がはびこりつつあって苦々しく思っていたし、結局それが、シンポジウムと言いつつ単なる発表を並べただけになってしまうのを見てきたからであった。
 しかしそれなりに緊張はしていたのである。当日、会場へ着くと、控室にみな集まっており、伊藤公雄もいた。少し緊張した雰囲気があって、私は伊藤悟の隣に座ると、ひょうたん島の話とか、予備校で一緒だった友人の話を仕掛けたが、伊藤は硬い表情で、あまり話に乗ってこなかった。伊藤悟は、一見すると同性愛者だとは思われない、身長は一七○センチ近くあり、顔だちもむしろエリートサラリーマンといっても通用しそうで、話し方もまったく普通の「男」だった。「パートナー」の梁瀬という人が、いわゆる「おネエ言葉」を使うほうのようだ、とあとで知った。
 藤木という人は、いわゆる知識人ではないようで、以前ある集まりで、有名なフェミニストからひどい目に遭わされた、と言いだした。この人は大阪弁だったが、え、それ誰ですか、上野千鶴子? 小倉千加子? などと訊いたが違っていて、
 「落合恵子
 と言うのを聞いて、学者連が、はああ、と気抜けしたのは、アカデミズムでは落合恵子というのはフェミニストとして認識されていないからである。
 なんでもさる講演会か何かで藤木がDVサヴァイヴの話をしたら、あとで登壇した落合が、そういう話はサヴァイヴできない弱い人を追い詰めることになる、などと貶しつけたらしく、藤木はそうとう怒っていて、「殺してやりたいわ」と言った。
 ところが、伊藤悟はその年の八月に、落合恵子との対談のかもがわブックレットを出していたのである。そろそろ会場へ、というのでみなが動き始めた時、伊藤はそのことを言い出して、
 「私は同性愛を認めてくれる人なら、どんな人でも嬉しいんです」
 と言い、藤木に向って、
 「私は落合さんに感謝しています。私のことも殺したいですか」
 と詰め寄り始めたのである。藤木も困っていたが黙ってやり過ごし、みなも聞こえないふりをして会場へ向かったが、かくして楽屋から既に波瀾ぶくみだった。

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南部修太郎(1892−1936)という作家がいた。今では忘れられた作家だが、慶応出身で、大正期にはある程度知られており、若いころの川端康成が兄事していたことでも知られる。
 この南部が、久米正雄の「良友悪友」(1919.10)に「N氏」として登場し、童貞らしいが、と書かれた。南部は久米に手紙をよこして、それは違う、と抗議したという。当時南部は、27歳くらいだった。翌年、中戸川吉二が「童貞」(1920.5)で、この南部と一緒に小田原へ行って藝者を買ったことを書いたが、どうも南部は実は童貞だったのではないか、ここで藝者によって童貞を破られたのではないかと思う、という話である。
 で、こんなものがあったのだが、
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000057752
 いやあ、久喜図書館しっかりしてほしいのである。「童貞」はその年のうちに出た中戸川の短編集『縁なき衆生』に入っていて、国会図書館近代デジタルライブラリーですぐに読めるのである。もし久喜住まいの不幸な読者が、まだ入手できずにいるなら、それを教えてあげたいのである。
 ああさるにても、南部、久米、中戸川、みな読まれぬ作家となってしもうた‐‐。

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http://d.hatena.ne.jp/kanimaster/20090926
なるほど、石原千秋は私に反論しているらしい。作者以外の現実には触れていいのだ、と。もっとも、「テクストは間違わない」のに鈴村和成のテクストは間違うのか。しかし、漱石には言及しない、では朝日新聞や東京帝大には言及してもいいのか。すると「テクスト論」は、漱石だけ無視して朝日新聞や東京帝大に、あるいは『三四郎』なら岩元禎に論及することになる。さらに『煤煙』となると、森田草平には論及しない、しかし作者ではないから平塚明子には論及するということになる。平塚明子が…と心中未遂事件を起こし世間を騒がした、ということには触れられるが、森田だけは作者だから触れられない、というわけの分からないことになる。テクスト論というのは、どこまで行っても不完全な方法であることをすぐに暴露してしまうものなのだ。
 (小谷野敦