http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090906/bks0909061310008-n1.htm
中野恵津子の新訳は古沢安二郎の『アメリカの渡り鳥』よりいい訳とはいえない。古沢訳は古いことは古いが、独特のリズムがある。それにレストランの名前を「コーナー・カップボード」などとやっているが、それはカバードと発音するのだ。古沢は「食器棚亭」と訳していた。もっとも日本の家具業界では「カップボード」などといっているようだから、ページェントのごとく誤発音で定着する恐れもある。
また中野訳の折り返しの作者紹介に、「『グループ』や本書『アメリカの鳥』で作家としての名声を確立する」とあって、はあ? と思ったのだが、マッカーシーは30代から小説を書き始めて純文学の世界では知られていたが、50歳頃の『グループ』がベストセラーとなってさらに広く知られ、その後ベトナム反戦運動に深入りして、60歳頃で『アメリカの鳥』を出しているから、この紹介文は間違い。
なんでそんな間違いをしでかしたのか、集英社の世界文学大事典を見てもそんなことは書いていない(しかしこれは「マカーシー」で項目が立っていて、編集委員会の良識を疑う)。するとウィキペディアに、そう書いてあった(既に修正済み)。たぶんバカな編集者が、ウィキペディアを参考にして書き、訳者も研究者じゃないし、あてがわれたのを訳しただけだから見落としたのだろう。むろん池澤夏樹はそんなことは書いていない。
マッカーシーは日本では、ベトナム反戦関係のものが先に訳されたから、ほとんど『グループ』の小笠原豊樹訳以外にまともな作品の訳はない。しかし金井美恵子先生が絶賛する『グループ』を、今では普通の人が読むものではないとか、池澤夏樹大胆なことを書くぜ。そりゃ純文学だからいずれにせよ普通の人が読むものではないだろうがね。
もっとも池澤が『グループ』が嫌いなのは、それがモデル小説だからである。池澤の解説には、その政治的志向性とともに、私小説=事実小説蔑視の風潮が如実に表れている。
しかし丸谷才一、辻原登や平野啓一郎、あるいは池澤らの作品は、私小説でないものは容易に通俗小説になるということを示している。
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「キーパーソン」というのを見ると「パーキンソン」に見えることがある。それで思い出したのだが、もう二十年も前か、『ぴあ』の欄外に「カウパーセン氏は気の毒だ。ペニスから出る透明の液体を発見しただけなのに、その名が『カウパー出ちゃった』などと使われている」とあった。そりゃカウパー腺液で、カウパーセンではない。それにあれはウィリアム・クーパーで、明治期にカウパーと誤読されたのが残っているだけだろう…。
(小谷野敦)