マジック・リアリズムというのは、事典風に言えば、通俗小説を純文学に見せかけるために考案された技法、というところか。
20世紀半ば、いわゆる純文学は、死滅しつつあった。19世紀の小説の技法はおおかた通俗小説に流用されるようになり、純文学と言えるのは、前衛小説か、私小説くらいしかなくなっていた。そこへ、フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』の亜流としてガルシア=マルケスの『百年の孤独』が出てきたものだから、人々は飛びついたというわけだ。いや、出版社などは、通俗小説一本でも良かったのだが、ちと良心が痛む。いくらかは「純文学」を尊重しているふりもしなければ、外聞(誰に対して?)が悪い。かといって、前衛や私小説は売れない。で、この路線なら、読者をたぶらかして、そこそこ売れるだろうと見込んだわけである。
フォークナーの「サーガ」の技法に、ラテンアメリカ的な諸要素で味つけがされて、エスニックな味わいがあり、政治的にも正しい、というわけだ。多いか少ないかは別として、19世紀から20世紀の西洋の植民地主義を風刺、批判していたら、それはそれでいかにも、純文学というのは正義を標榜するわけではない、ということを知らず、『カラーパープル』が純文学だと思う一般読者やそこいらへんの英文科の学生ならだまくらかすのは造作もないことだった。
そこにまた、カート・ヴォネガットのような、純文学に見えなくもないSF作家が現れたし、ファンタジーにもそんなものがあったから、メルヴィルも持ち出してごたごたさせて、物語の技法とか場面の奇妙な転換とか、時間の錯綜とかを入れつつ、まあ大筋はエンターテインメントにしておいたら、そこそこ売れるだろうと考えて、だいたい、今日までうまくやってきたというわけだ。
だいたい分厚い小説で、小道具さえ工夫すれば通俗ものだとはばれないし、人種問題だのジェンダー問題だの、「問題」を入れ込んでおけばよろしいわけで、次第にノーベル文学賞もとるようになってきた。今や本場のバルガス=リョサのみならず、莫言みたいなアジアのマジック・リアリズム作家も認知されているというわけ。