死の絶対性

(下書きにはタイトルの欄があるのだが、アップした時にタイトルにならないから、書いておいても無駄だと気づいた)

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 田中貴子が切れているからご注意、と稲賀さんから葉書をもらったところだった。たぶん私のことだろう。(××さんだそうだが、まあそれはいい)
 面識もない人にいちいち「亡くなった」などと書く偽善が、私は嫌いである。むろん、その作家が好きだったとかいうならいいけれど、どうせその人のことを碌に知らないニュースキャスターあたりが「ご冥福をお祈りします」などと言うのを聞くとムカムカする(まあ最近はニュース番組など見ないけれど)。
 私が、他人の死をめぐる偽善ときっぱり手を切ったある事件については、「ミゼラブル・ハイスクール1978」に書いてある(なお、これは単行本初出時にはいくら何でもひどかったので、文庫化に際して徹底的に手を入れた)。
 田中貴子は、おそらく、死の絶対性というものを理解していない。死んだらその人にとって、世界はなくなるのである。勲三等を貰おうがどれほど褒められようが、死者は何も知らない。しかしこうして「死者」を主語として語ることが、既に死者を扱う文章として不適切である。
 阪大に就職した頃、フランス語の教授が、私をいじめようとして「君の書いた論文を読んでねえ、漱石はあの世で笑っとるよ」などと言ったが、あの世などというものはないから、そういうことはない。それは言葉の綾だ、と言うだろうが、こういうことを言う時、人は実は心の底で「あの世」があると思っている。
 「天国のお母さんも喜んでいるよ」というのも、嘘である。そんなものは、ないのである。
 近親を失っても、いつか、一日、その人のことを考えずに過ぎる日が来る、と言われるが、母が死んで一年半たった今、母が死んだことを思い出さない日はない。ほとんど生き地獄である。母の死の前と後とで、私の人生は二分されている。
 私は葬儀の時、母の遺体に冷淡だったと言われたが、それは、そこにあるのは母の抜け殻でしかないと思ったからである。
 後に残った人々が何を言おうと、死者はそれを知らない。まったく知ることはない。そのことを、人々は往々にして知らずにいて、死んでも何かが感じ取っているように思っている。
 そのような絶対性の前で、「死んだ」か「亡くなった」かなどというのは、白痴の語る物語である。マクベス夫人が死んだと聞いた時のマクベスのセリフは、死の絶対性に触れたものである。
 殺人犯の死刑判決が出て、本村洋さんに「癒されましたか」などと訊いたやつがいるようだが、そういう奴は、殺された人間と遺族とを取り違えている。死者は何ひとつ感じない。何も知らない。その絶対性が、殺人犯に復讐するのである。
 死者をめぐる言葉のあれこれは、生きている者の感傷に過ぎない。

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(活字化のため削除)
 しょせん大河ドラマとの連携で儲けている商売人似非学者、もしかしたら再来年の大河がお江になったのも小和田の意向かもしれん。どうせ今度は小督ものの本を出すのだろう。
 みんながちょっとずつ正直になることで、世の中はすごく良くなるんだよ。