作家は嘘つきであるか?  「星座」2018年4月

作家は嘘つきであるか?                 小谷野敦

 「作家(小説家)は嘘つきである」というようなことを言う作家がいる。そんなに昔からある言葉ではあるまい。萩原朔太郎が「すべての文学者は嘘つきである。特に小説家は大嘘つきである。なぜなら小説に書いてることは、皆作り話であり、ロマンスであり」(「嘘と文学」一九三七)などと言っているのだが、そんなことはないのである。私小説というのもあるし、モデル小説とかノンフィクション小説というのがある。朔太郎は詩人だからいいが、小説家でも、「原稿は贋札だ」などと言う人がいる。
 どちらかというと、「無頼」を気どる作家が言いがちなことで、唐十郎は、役者は女衒、などと言っていたが、これはアングラ演劇の意匠のひとつであろう。
 だが、フィクションというのは、フィクションとして提示されるもので、そのことによって作家が嘘つきになるわけではない。それに世間には私小説や事実に即した小説も、日本に限らず海外にもあまたあって、作家だから嘘つきだ、などというのは、作家自身が露悪趣味で言うにしても耳障りである。
 これと似た例で「翻訳家は裏切者」などというのもあるが、これはイタリア語で「il traduttore e un traditore」という言葉遊び、ダジャレとして言われたものを訳しただけなのに、大まじめに受け取って、翻訳というのはしょせん原典の意を伝えることができないのだ、などと言いだす者がいるから困る。むしろ詩とか、言語遊戯のふんだんに含まれたものの翻訳は困難で、散文で平易に書かれたもの、ないし叙事詩は翻訳が分かりやすいとすべきだろう。
 その一方、事実を書いているのだろうと思わせて大変な嘘が含まれている文章もあって、田宮虎彦の作品で、田宮は父を憎み、父に虐げられる母に愛情を感じていたのだが、その母の死を父が知らせてくるという場面があった。ところが実際には父は母よりはるかに早く死んでいるのであり、これを知った時は、たまたま私の母が死病にとりつかれた時だったので、田宮の嘘に怒りさえ覚えたものだ。
 黒澤明スクリプターだった野上照代が「ドキュメンタリー」として書いた父(ドイツ文学者の野上巌・筆名・新島繁)についての文章は、山田洋次が「母べえ」として映画化したので知られるが、この中で父は戦時中に治安維持法違反で逮捕され、獄死することになっている。だが野上巌は戦後出獄して十二年も生きていたので、こういう「嘘」は私は気になる。
 もしかすると、「『すべてのクレタ島人は嘘つきである』とクレタ島人が言った」という有名なパラドックスをまねて、作家が「作家は嘘つきである」と言っているのかもしれないが、このパラドックスは、「嘘つき」は常に嘘をつくという前提に立っている。だが人間は、嘘以外は沈黙しているのでもなければそんなことはできないのだ。
 柳田国男の『不幸なる藝術』は、「嘘」の効用を説いた文章だが、私はこの文章が嫌いで、若いころ一読して不快感を感じたくらいだ。今にして考えると、これは柳田の、私小説批判の一環だったのではないかと思う。
 実際この世には、タチの悪い嘘や詐欺などは横行していて、もちろん中には必要な嘘もあるのだが、単なる害である嘘を私は憎んでいるのだが、世間には自身が嘘つきだからか、嘘を擁護したがる人がいて、どうもこの手の「嘘」をめぐる言説には、「嘘つきの自己弁護」的な臭いを感じてしかたがないのである。