週刊新潮と週刊文春

 『週刊新潮』で福田和也氏が、またも一番乗りで『里見とん伝』を取り上げてくださっている。福田様ありがとうございます。
 対して『週刊文春』では宮崎哲弥氏が、私の写真つきで、羽入辰郎『学問とは何か』について書いておられる。あの本は、折原浩らの批判がそもそも大して中味がなかったので、むしろ附録的なエピソードのほうが面白いのだが、宮崎氏も、そこを面白いとしつつ、「これは知的営為とは程遠い、卑しい野次馬根性のなせる業と認めざるを得ない」とあって、少し考え込んだ。これは宮崎氏が自身の感じ方について言っているのであって、早とちりして羽入を批判しているのだなどと勘違いしてはいけない。しかし、そういうのは「卑しい」だろうか、「知的営為とは程遠い」だろうか。たとえばモーパッサン永井荷風の伝記は、やはり女関係が面白いわけで、それを読んで面白がるのが、知的営為と程遠いだろうか。あるいは『とはずがたり』は言わずもがな、島尾敏雄の『死の棘』だって、そういう面白さがあるはずで、それを取り除いたらむしろ知の世界はずいぶん味気なくなるのではないか・・・。
 ふとBSデジタルをつけたら言語の起原の話で、言語は他人に物語を語りたいという欲求から発達したと言っていた。これは私もそう思っていたことで、ゴシップこそ言語の発達に重要な役割を果たしたというのが私の説だ。

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最近「官能検査」とかいう語を不思議な場所で目にして、何だろうと思っていたら、食品の味を調べるのをそう言うらしい。じゃあ岬多可子の『官能検査室』もその意味で、『もっとも官能的な部屋』とは全然違うんじゃないか。(食品だけではないらしい)。『官能検査室』の後記には、「官能検査というのは、私が学生時代によくおこなった検査である。私の味覚や嗅覚や視覚は検査され訓練され、・・・さまざまな物質を検査した。識別し説明し順番をつけた」とある。分かって使っているのだが、島田修三は知らなかったのだろう。

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 町田明広という、私と同年の人の島津久光に関する本が出ていたので立ち読みしたが、やはり「廃藩置県」に怒って花火を打ち上げた、とあった。なぜ司馬遼太郎は「版籍奉還」の時、と書いたのだろう。

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