国文学者が英語を読む

 平川先生が『アーサー・ウェイリー』で、河添房江先生編集の『講座 源氏物語研究 第十二巻 源氏物語の現代語訳と翻訳』(おうふう)について、収められた論文の出来不出来が甚だしいと書いていた。私はこの本は河添先生から戴いて全部読んではいなかったので、覗いていたら、木村朗子の論文に、ウェイリーが訳した『源氏物語』がヴァージニア・ウルフに影響を与えたのではないか、しかし実証は難しい、とあって、それはいいのだが、「緑川真知子によれば、男から女へと性を転換させながら、数世紀を生きる『オーランドー』の主人公、オーランドーの造型に光源氏像があるのではないかと指摘されているという。オーランドーには、光源氏のような両性具有性が揺曳するというのだ」とある。そりゃ逆だろう。光源氏には、オーランドーのような、の間違いだろう。しかし逆にすると、『源氏』英訳がウルフに影響を与えたという論が成り立たないから、こんな無理なことをしているのだ。光源氏に両性具有性があるというのは、仮説としてはありうるが、ウルフがそれを感得してオーランドーにしたというのは、無理な話である。
 それ以上に、「緑川真知子によれば」というのが分からぬ。誰がそういうことを言っているのか。もちろんここには注があって、緑川の「英訳における主人公 光源氏像」『人物で読む『源氏物語』第五巻』(勉誠出版)があがっているので、それを見ると、ここでも似たような記述に注があって、de Gruchy という人の『Orienting Arthur Waley』という2003年の本があがっている。ページ数はない。それでその本を見つけてインデックスでウルフを探してみると、マサオ・ミヨシが、『源氏』の訳者としてウルフが良かったのではないかとしたことから、デグルチーが論じていることが分かった。
 「両性具有性」などというのは、今の米国あたりの文藝批評の流行だから、それで出てきただけだろう。だからほかにもいるのだろうが、「緑川真知子によれば」と書かれてしまうと、いったい誰が、とこうやって遡行探索することになる。
 それはそうと、緑川はおそらく45くらい、早稲田で「源氏物語英訳の研究」で博士号をとっており、木村は40歳、津田塾准教授で、東大言語情報で博士号をとっている。しかるにこの二人は、注と参考文献表における外国語文献の記し方が分かっていないらしい。
 著者名の場合、たとえばJudith Butlerであれば、注ならそのまま、参考文献表ではButler, Judith。書名はイタリックにし、論文はクォーテーションをつける。しかるにこの二人は、それが半分くらいしか分かっていないらしく、緑川は注で人名を逆さにし、木村は参考文献表で逆さにしないとか、あるいは木村なら、書名をイタリックにした上でさらに『』に入れたり、出版社名までイタリックにしたりしているが、これは出版社のほうで理解しなかったのかもしれない。
 平川先生はしきりと「英語ができないので国文科へ行った人たち」などとバカにするのだが、こういう態度は良くない。お互い教えあって学問を向上させてゆくべきであろう。

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 岩波の『図書』臨時増刊の、岩波新書創刊70周年記念臨時増刊「私のすすめる岩波新書」で、三浦俊彦のところを岩波のHPで訂正していたが、詳しいことが分からなかった。しかし現物を見て失笑した。三浦は①として、湯川秀樹朝永振一郎ら編『平和時代を創造するために』をあげていて、「パグウォッシュ会議にいたる反戦思想の流れに、日本の科学者がどう関わったかを記録した平和運動のバイブル。・・・私の指導教官だった川本皓嗣先生が何冊も買い込んでただで配りまくっていた」とあるのだが、これは実は「私の指導教官だった・・・配りまくっていた②は・・・」だと訂正されていて、②は大平健の『豊かさの精神病理』なのである。仮にも保守である東大比較の主任が、反戦平和運動のバイブルなんか配りまくるわけがないから、おかしい。きっとネットを見ない人など、これを読んで驚いているだろう。もっとも大平健の本を配りまくるのも変だが・・・。これが出たのは1990年6月のことだが、私は配りまくっているのを見ていないので、カナダへ行った後のことだろうか。