稲垣眞美『旧制一高の文学』

 前に、成瀬正一を成瀬正勝と混同している件で触れた稲垣眞美の『旧制一高の文学』を通読した。稲垣(1926- )は自身東大卒のため、一高にいた竹内敏雄などから思い出話を聞いたりしており、その他いろいろ教えられるところはあった。ただ哲学や詩の話題が多く、この人はあまり小説は分からない人ではないかと思った。あと川端康成ノーベル賞をとったとか、大岡信文化勲章をとったとか、そういう「その後の出世」が妙に強調されていて、しかも大岡が文化勲章を受章したと書いたあとで大岡のエピソードに触れ、「文化勲章受賞(ママ)者大岡に聞いても、まったく思い出せない」とまで強調するのは、妙に俗物的に見える。
 あるいは自殺者への関心が強く、藤村操、島村秋人、原口統三という人々に多く筆が割かれているが、島村は抱月の遺児で、昭和3年山中湖畔で自殺したのだが、何か松井須磨子に悪意でも持っているようで、抱月は須磨子からうつされたスペイン風邪で死に、秋人の母は夫を須磨子に奪われ、という感じである。まあ、一般的には須磨子が同情的に描かれるから、あえて妻と子の立場も書いたということでいいだろう。
 稲垣はDVD版「一高校友会雑誌」の編集委員だったので、それらを資料として、旧一高の同窓会氏『向陵』に連載したというのだが、それにしては、前半部に、間違いが多い。誤植程度ならいいが、日本語がおかしいところさえある。それで、一応校正表を作ってみた。

稲垣眞美『旧制一高の文学‐上田敏谷崎潤一郎川端康成・池谷信三郎・堀辰雄中島敦立原道造らの系譜』国書刊行会

4p、倉田百三「愛と認識への出発」→「愛と認識との出発」(あとのほうの章題でも間違っている。正しく記しているところもあり)
19−20p、16歳の上田敏が『源氏物語』を柔弱であるとして批判しているのを紹介。その当時は『源氏』についてこういう見方が一般的だったのだが、稲垣はそれを知らず、「現代の文学の規範に『源氏物語』を持ってくるのは、大人に子供の服を着せようとするようなものだ」(大意)と意味不明のことを書いている。
22p、内村鑑三が「アセスト大学でキリスト教信仰に入り」→「アマースト大学
 「地震」に「なり」とルビ→「ない」
29p「谷崎潤一郎らと第一次『新思潮』を出すことになった小山内薫」第一次には谷崎は無関係。
58p「デビュー作となった『刺青』」谷崎の『新思潮』でのデビュー作は戯曲「誕生」‐これもすぐ後に自分で書いている。また大学の法学部へ入ったというが、国文科。
66p、松岡譲「法域を護る人々」→「法城を護る人々」(誤植か)この辺、久米正雄に関する記述も間違いが多いが、これはやむをえまい。
68p「犬山城主の裔であった成瀬正一」成瀬正勝(雅川滉)と混同している。
 この辺、菊池寛に関する記述も変で、『文藝春秋』を創刊してから創作から遠ざかったのは惜しいことだなどとしている。
76p「Conventional」(注、ご都合主義)とあるが、それは「保守主義」であろう。
77p「まさに身もあられもないような書き方である」「あられもない」「実も蓋もない」「身も世もない」がごちゃまぜになっている。
79p、「病弱ぎみだった倉田」→「病がち」とか「病弱」だけでよろしい。
80p、藤森成吉が徳冨蘆花の「謀叛論」を読んで感動→「謀叛論」が活字になったのは戦後のこと。
130p「石田英一郎は甲冑(かっちゅうとルビ)華族(子爵)の家に生まれたが」華族のことを別称「華冑(かちゅう)」と漢語でいう。
177p「椎名鱗三」→「麟三」
178p「原弘」→「原広司」 
215p 司馬遼太郎空海のいる風景」→「空海の風景

 一番おかしかったのは「甲冑華族」だな。