小野俊太郎の謎

 『モスラの精神史』を上梓した小野俊太郎は、『超人高山宏…』によると、小野二郎の息子だとある。ところがウィキペディアにその旨書いたら、同名異人だと注意を受けた。高山の勘違いだという。つまり小野二郎に俊太郎という息子はいたが、この小野俊太郎ではなく、高山はこの小野俊太郎に確認せず(というか講談社とかに確認もせず)そう思い込んでいたということになる。
 まあ人間誰しも間違いはあるもので、ただこの本は増刷しないだろうから、このままだろう。
 ところで高山は、本郷英文科の教師には、大橋健三郎を除いて軽蔑しか抱いていなかったと書いていて、そこで名を隠して挙げられているのは、中島文雄、小津次郎で、あとは青木雄造と平井正穂なのだが、高山の当時はまだいいほうで、私が英文科へ進学した当時は、どうしてこうも、地味で業績もない人が揃っているのだろうと、けっこう暗澹たる気持になったものだ。どうやら本郷の英文科や仏文科には、例外はあるにしても、実力のある、目立つやつは駒場どまりにしておこうという意向があるようで、たとえば池上嘉彦高橋康也など、あるいは阿部良雄渡邊守章などである。
 だから比較の大学院へ行った時は、まあ右翼だとか言われてはいたが、ちゃんと著書もしかるべき量のある人たちが教官だったので、その点では、英文科にいた時のような憂鬱感は、なくて済んだ。
 

                                                                      • -

『文藝』笙野頼子特集に載っていた松浦ジュテルの『川の光』の、福永信とかいう若い作家の書評、そのあからさまなヨイショぶりには唖然としたよ。読売新聞連載中、お父さんは夕刊をいつもは途中のゴミ箱に捨ててしまうが、その期間だけは持ち帰って、下手な朗読で子供たちに聞かせていただろうって、一杯のかけそばみたいなほのぼの話。お父さんが会社から帰る途中に買うのは、夕刊フジ日刊ゲンダイかスポーツ新聞であって、普通読売の夕刊は、宅配だろう。
 松浦ジュテルは、中身なき文学機械だ。古井由吉ロラン・バルト谷崎潤一郎斎藤惇夫、何でも取り込んでよくできた作品に仕上げる。だがジュテル独自のものは、何もないのだ。だがもういい分かった。あんたの政治力は凄い。東大総長にでも芸術院会員にでもなって、野間文芸賞から大仏次郎賞、朝日賞から紫綬褒章文化勲章、何でもとってくれ。

                                                                      • -

そういえば前に『評論家入門』で、早稲田の教授の年収が2000万と書いたら、石原千秋から手紙が来て、何かの資料のコピーが入っていて、上限が1400万だとあった。アマゾンで訂正しておいたのに、武蔵大の土屋というやつが、重ねて「調べもしないで」と非難するレビューを書いていた。
 ところが、私大教授の友人に訊いたら、そんなのは一番低めに見積もった数字で、研究費とか入れたら1400万なんてことはない、とのこと。まあ研究費は本などが買えるわけだが、早稲田にいたらだいたい定年までいるし、研究費で買った本なんて、自宅にずっと置いておいても書き込みをしても何も言われないから、書籍代はそれで済むわけで、それにしても、所得を少なめに世間に向かって申告するのは、政治家だけじゃないんだなと思った。

                                                                          • -

「最高学府はバカだらけ―全入時代の大学「崖っぷち」事情」 (光文社新書) 石渡嶺司著 という本を見つけて、私は「最高学府」って東大のことだと思っていたから、単なる「大学」を「最高学府」ということに一驚した。