さすが筒井さん、と言う不幸

 『中央公論』に載っている谷崎賞の選評で、筒井康隆氏が、原爆を描けば新聞などでとりあげられやすいが、賞を与えるべきなのは、文学的新しさを持ったものであり、この作品はそうは思えないし、今までの作品数からいって、果たして谷崎賞にふさわしいのだろうか、と書いている。さすが筒井さんだと思ったけれど、これは、文学を知っている者なら誰でも思うことで、その程度のことを、筒井康隆でなければ言えなくて、「さすが」などと思ってしまう、これはもう、文壇の頽廃ではあるまいか。既に谷崎賞では、候補作には触れないことになっているから、他の候補作については知りえないが、まあ私にはどうでもいいことだが、臍を噛んでいる中堅作家の姿が目に浮かぶ。

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 間違いの指摘にも、いいやり方と悪いやり方がある。まず、heuristicな指摘とそうでないものがあるが、それは必ずしも指摘の仕方のよしあしとは関係ない。heuristicといってもさまざまで、それまであまり世間で知られていなかった間違いを指摘する(シュリーマンの自伝は嘘八百とか)、多くの人が間違いだと知っているがその人は気づいていないのを指摘する(喧々諤々という言葉はなくて、騒がしいのが喧々囂々、議論でやかましいのが侃々諤々とか)、また、初めて犯された間違いを正すとか(小野俊太郎小野二郎の息子だとか)があって、それぞれにそれぞれの意義がある。
 問題は、その間違いが誰によって犯されたどの程度のものかによって、自ずとやり方は違ってきて、この人にしてこの間違いはひどいだろう、という時は、それなりに罵倒する(加藤周一が脆弱をキジャクと読んだとか、松岡正剛の「兼仁院」とか)。
 いちばん良くないのは、というか良くないに決まっているのだが、「ああ間違えました」と本人が言っているのに、鬼の首でもとったようにがあがあとがなり続け、あたかもその相手の全部を否定するかのような言辞を弄する場合である。まあ、最後のこれをやるのは、たいてい、匿名人間である。ところで今週の『週刊新潮』でも、シュリーマン自伝を礼讃していた人がいたが、なかなか広まらないものだなあ。

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『日本の有名一族』を寄贈した学者の知人からのお礼に、なぜこれがないのか、というのがある。富士川游ー英郎ー義之の学者三代なども、当初予定していたのだが、一般読者はこのうち誰一人知らないだろうと思って割愛した。基本的に、学者というのは学者たちが思っている以上に無名なのだ。

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『最高学府はバカだらけ』で知った岐阜経済大学のHP。左端にある「広報人間ギケイダー」をクリック! 東映や石ノ森プロの許可は得ているんだろうな…。 (音楽はイナズマン
http://www.gifu-keizai.ac.jp/index_new.html
 (小谷野敦