歴史中二病

 先日、本郷和人さんに、「東大史料編纂所の史料だけ使って日本史を書いてください」と言っていたのがいて、そんなことができるはずはなく本郷さんもそう答えていたが、私は、典型的な「歴史中二病」だなと思ったのである。
 はじめ、人は、歴史の本に書いてあるのが歴史だと思う。次に、『平家物語』のような古典に書いてあるのが歴史だと思う。だがさらに歴史学者の本など読むと、古文書、古記録などが「一次史料」であって、歴史学者はそういうものを、ぐにゃぐにゃ文字から読み解いて研究するのだと思う。そして佐藤進一の『古文書学入門』などを読んで、すげえ、これが本当の学問だと思い、小松茂実の古筆学などを知ってさらに興奮し、『国史大系』の端本など買いこみ、大河ドラマを観る人間を軽蔑し、自分は歴史の研究の蘊奥を究めたと勘違いし、歴史なら何でも来いだと豪語するに至るのである。
 私は英文科にいたころ、図書室で古活字のシェイクスピア全集の復刻を見て、あ、こういうのを使わないといけないのかと思って中野里先生に言ったら、「でも、それは君には必要ないんじゃないかなあ」と言われて、はっと目が覚めた。文学のほうで中二病をこじらせると、『芥川全集』なんぞで研究ができるかと言い、初出の雑誌を見るようになり、遂には生原稿を見ないと研究は出来ないと思い込むに至る。美術のほうはもっと分かりやすく、画集で見たってダメだ、欧米の美術館で本物を見なければ研究とはいえないと思い、一般の美術好きを「本物も見てないくせに」と軽蔑するのである。 
小谷野敦)