渡辺千萬子さんから『落花流水−−谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出』(岩波書店)が届いた。お礼状は千萬子さんに書いたが、中に、私が千萬子さんにお目にかかったときのことが書いてある。二〇〇五年九月十九日のことだ。「谷崎についてはそれ程詳しく話した覚えはありません。その後は一度もお目にかかることはなく、この本(『谷崎潤一郎伝』)に関しての連絡、取材は一度もありませんでした」とある。
事実に間違いはないのだが、こう書かれると、私が不義理をしたようである。なるほど、もっとちゃんと連絡すべきだったとは、実は思っていた。ただ、これには複雑な事情がある。
もともと谷崎伝は、岩波新書で出すつもりで、当然ながらもっと簡単なものを予定していた。私から持ち込んで、旧知の編集者から紹介されたのが、新書担当のH氏であった。さて、私は原稿を書いてメール添付で送り、同氏がアカを入れて戻すということを初夏ごろからやっていたのだが、私が「シナ」と書いたことで、おかしくなった。同氏はこれを「中国」と直していたが、私は元からの方針であるし、谷崎自身が、チャイナと同じつもりで支那と書いているのだとしている文章も引いたが、同氏は「支那が不快だというのですから」と、これを鍵カッコ入れにすることを要求してきた。私はこの問題については何度も書いている。新聞にさえ出た。それを知らないはずはないのだから、これは問答無用の要求だと感じた。
その少し前に、千葉俊二先生と岩波で会う話が出て、私は少々重い心を抱いて出向いた。H氏と三人で話していて、千葉先生から、千萬子さんに会ってみないかと話があったのである。そして二週間後にH氏と三人で小田原に行くことになった。
だがその時、私は既に岩波から降りる決心をしていた。小田原へ行ってからにしようと思ったが、それまで時間がありすぎたため、私は「シナ」を認めてもらえないなら降りる旨メールをした。だから、当日、H氏とは一言も交わさず、小田急の切符代のふりをしてそれまでの労に報いる金を封筒に入れて渡したにとどまった。その時同氏が千萬子さんに、本を書かないかと交渉して、今回の本が出たのである。これは、よかったと思っている。
それと、千萬子さんに、あまりしつこく根問いしてはいけないとも思っていたので、千葉先生に監視してもらいながら、疑問点を二、三問うた。その際千萬子さんが、最近、文章を書いている、と言われたので、私は、それなら雑誌に紹介するなどと安請け合いしてしまった。最初某雑誌に持ちかけたら、小谷野さんが取材して書くというならいい、ということだったので、別の某誌に話したら、その社で、千萬子さんが単行本を出す予定になっていると聞かされた。私は知らなかったので驚いたが、たまたま担当の人を知っていたので訊いてみると、確かに、書いてみたらと言ってはあるが、特にすぐどうこうということはないという話だった。
それで、まず千萬子さんに、とりあえず随筆を書いてみてくれるよう、電話で頼んだ。いざ届いたものを見て、困ったのは、やはり私は、谷崎のことを書いて欲しかったのが、ご自身のことを書いておられたからで、編集部に見せたら、このままでは掲載できない、二、三度書き直ししてもらわないとということだった。
私は考えて、編集者でもない私が橋渡しをして二、三度の書き直しはムリだと判断し、電話で千萬子さんに断りを言った。この時は、千萬子さんも、予期していなかったようで、失望の声を聞きながら私は比較的冷淡に電話を切った。
そんな経緯で、以後、千萬子さんに、著作の経緯を話すことができなくなってしまったのである。とはいえ、私には、自分が気に入った人を、すぐに出版社や雑誌に紹介したがる悪い癖があって、もちろん、うまく刊行の運びになったケースもあるのだが、うまくいかなかったことの方が多い。あと、評伝を書くときは遺族にいろいろ配慮しなければならず、谷崎の場合、いかに遺族間に複雑なものがあるか、千萬子さんの本を読んでいただければよく分かると思う。千萬子さんは明らかに松子と対立しているが、谷崎の著作権継承者たる観世恵美子さんは松子の実の娘である。