「学者のウソ」(2)

あと、個別に気になったことだが、掛谷氏はゆとり教育を批判する、それはいいのだが、
・「個性を伸長しなければならないという目的自体は、誰もが賛同するだろう」とある。いや、私は賛同しない。「教育とは、凡庸の強制である」と思っているからである。これは誰の言葉だったかな。だって、いじめっ子のいじめる個性なんか、伸長しちゃいかんだろう。撲滅しなきゃ。むろん「良い個性」を伸長するのだと掛谷氏は言うだろうが、良い個性なんか一つも持っていない子供だっているだろう。死んだ方が世のためだというような子供だっているだろう。
ポストモダンに関する話で、掛谷氏は最終的には、相対主義者というのは、自分に都合がいいように相対主義を使っているという。それはその通りだ。ところで、「ポストモダンは普遍性を追及する考え方に反対する」とある。実はポストモダニスト仲正昌樹はこれを否定している(『なぜ話は通じないのか』)。ではポストモダンとは何なのかといえば、結論のない宙づり状態に耐えることだと言う。しかし、ポパーによれば数学以外のテーゼはすべて仮説に過ぎない。ポパーとどう違うのか。ポストモダンというのは、もともと建築の用語で、それならよく分かる。しかし、社会思想でポストモダンといったら、近代の人権思想とか、自由・平等とか、そういうものを疑わねばおかしいだろう。掛谷氏は、マルクス主義こそ「大きな物語」だったと言っているが、「大きな物語」などという比喩的で文学的で内容のない語の意味を、掛谷氏が理解してはいけないのだ。こういう言葉は、科学的にはまったく無意味、とはっきり言うべきである。いわんや、「ポストモダン左旋回」なんて、それこそ、マルクス主義者を名乗る資本家か、人を生まれで差別してはいけないと唱える天皇みたいなものだ。

さてしかし、昔はいくらなんでもこんなにインチキ学問が蔓延していなかっただろう、ということで、そう仮定すると、もちろんマスコミというものがないから、ということはあるが、たとえば徳川時代に幕政批判はできなかったというようなこととは別のレベルでおかしい点があるとしたら、それは民主主義のせいである、と考えるべきではないか。上野千鶴子を批判するのはよいが、上野を東大で採用した者の責任を問う。あんまりひどい学者はクビにするとか、そういうことを考えるしかない。現に理系において論文捏造があればクビになるのだから、文系でやって悪いことはない。だいいち日本にはテニュア制度さえない。もちろん、テニュアをとったトンデモ学者というのもいるだろうが、とにかく終身雇用なんだから、いかん。テニュア制度があれば、瀬地山角なんかとれないでクビである。
http://homepage3.nifty.com/sechy/
アメリカ立ち会い出産奮闘記」なんか業績にするか、このバカ。
 ただフェミニズムに関して言えば、「国際シンジケート」のようなものである。もっとも前から私が言っているように、フェミニズムの基本的な論点は80年代までに出尽くしていて、あとはただ、本当に困っている女性たちを救う実践活動をすべきであり、現実に困っている女性たちに手をさしのべればいいし、地道にそういうことをしている人たちもいるのだが(ただし弁護士は別)、そんなことをしてもアカデミズムの業績にはなりえないから、
性別は事後的に変えられるといったことを、詭弁を弄して言うのであり、学問的にも疑わしい上に、現実に対しても何の意味も持っていない。
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 また掛谷氏は、インターネットによるマスコミの覇権の転覆に期待しているが、私は期待していない。これは前に書いた通りだ。たとえばある会社員は、会社でずっとパソコン画面を見ているから、家に帰ってまでインターネットなんかやる気にならないと言っていた。

 私が、あればいいと思っているのが「学問裁判制度」である。インチキ学者のたちの悪いのは、たいてい、批判されても無視するのは、掛谷氏も赤川学の「子どもが減って何が悪いか!」を例に挙げて述べている通りだ。だから、文部科学省の下に「学問裁判所」を設けて、批判に答えるよう訴を起こせるようにするのだ。むろんこれは「司法」ではない。二千円程度の印紙で起こし、答弁しない者には十万円ほどの罰金が課せられる。法的にはどうなのか分からんが、あればよい。ただし、訴を起こせる者の資格は制限しなければなるまい。博士号を持っていることとか。ただ、判決を下すわけではなく、反論を義務とするだけであるから、裁判長が上野千鶴子、というような問題は起こらない。
 もっともこれも、現在の裁判と同じで、どんな決定が出ようが、マスコミ、特に新聞が報道しなければ一般には知られることがない。ただまあ、フェミニズムに関していえば、既に多くの人がそのインチキに気づいているし、今後それほど重大な被害を与えることはあるまい。
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 ところで今のところ、私が一人で戦っている観のある「遊女は聖なるものだった」論であるが、この論にはまりつつある沖浦和光は、性に関することがらは主観的なものだから、と私信で言っていた。こうも学問というものを理解していないのかと驚いたが、
 「遊女は聖なるものである」
 というテーゼは、厳密に構成し直せば、
 「その社会の構成員の半数近くが、そう信じている」
 となる。だが、中世日本で半数以上の人間がそう思っていたなどということは証明されていないし、ほぼありえまい。そうではなく、中世であるから、
 「その社会の知識階層の多くがそう思っていた」
 に修正したとしても、同じだ。
 以前、現代においても聖なるものだなどと主張する者がいたが、これまた同様にありえず、これはアンケートをとれば証明できる。