音声中心主義?

 ニキータ・ミハルコフの父のセルゲイが死んだが、96歳。長生きしたものだ。あとフランク・カーモウドもまだ90歳で生きているらしいが、カーモウドの代表作のひとつ『終りの感覚』は、確か某女子大での連続講演がもとになっていた。しかしこれは難解な本で、某女子大はレベルが高いのだなあとか言われていたが、あまり学生は理解していなかったのではないか。もっとも理解可能かどうかは知らないが…。
 西洋にはよく、どこそこで行われた講義を本にした、というものがあって、これが私にはよく分からない。自分で書いたほうが早いではないか、と思う。ただそこには、あとさきに関する何か「壁」のようなものが、私と、そういう人たちの間にあるように思う。
 私は、まず自分で書く。講演や講義をするとしても、書いたものに基づいて話す。講演や講義があるから、それのために原稿を書く、というのは何か本末転倒のような気がする。というか、はっきり、意味が分からない。
 ソクラテスは自分では書かなかったとか、ソシュールは本を出さなかったとかいう。まあソクラテスの場合は、書いても本として売り出せるわけではないのだからいい。あとラカンセミネールとかいうのもあるが、あれを書き言葉で出したら狂人と思われるだろう。
 論文集を出す、というので原稿を頼むと、平気で遅らせる教授というのがいる。しかし、講義をする、となると遅らせるわけにはいかないから、その場合は書く、ということになるらしく、集中講義をすると本が一冊できるというような人は、切迫しないと書けないということなのだろうか。授業をやって、学生の意見を聞いたり発表を聞いたりして自分の研究を練り上げる、というのは、それは一流大学でなければできないし、二流以下の大学で教えていてもあまりそういう効果は期待できない。あるいは私のようにほとんど英語教師として終始していても意味はない。
 柄谷行人には講演集があり、夏目漱石にもオリジナル講演がある。しかしこれは、柄谷や漱石だからであって、聴衆は彼らの書いたものをある程度読んでいる。それに対して私などは、大学で講義をしようと講演をしようと、聴衆の多くは私の本など読んでいないから、結局それまで書いたことをまとめて話すことになる。
 もっとも、それをのけても、講演を本にするというのは、やはり一種の音声中心主義というものなのだろう。さすがにデリダはそういうことはしなかっただろうが。してみるとデリダの中でも音声中心主義批判というのだけは、意味がある、と思えるのであるが、その方面を継承している人はあまりいないのであろうか。(デリダの講演本はあるらしい。音声中心主義批判とは何だったのか分からなくなったが、まあどうせポストモダンなんて何を言っているか分からないのである)

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前に三ツ野くんにやれと言った江藤淳の岳父のことは山田潤治氏が詳しく調べておられる様子なのでいずれ公刊されるのであろう。

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西村賢太氏より新刊をいただく。うち一作は某文藝誌に載せる約束だったがこじれて『群像』に拾われたといい、その『群像』からも二年半干されていたとあり、調べたら確かに「どうで死ぬ身の一踊り」以後二年半『群像』には書いていない。
 まあ全文藝誌からパージされている私などとは格が違うし、『群像』なんて干すどころか鼻もひっかけられない。編集部まで出かけて行って編集長に土下座をすれば載せてもらえるのかなあ。

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http://www.nara-u.ac.jp/koku/professor/index.html
これ多分光石亜由美さんが描いた自画像なんだろうが、いかにも旧式な、大学の女性教員って感じで、もう少し美化したほうが、学生も集まると思いますよ…。
 (小谷野敦