掛谷英紀氏から、新著『学者のウソ』(ソフトバンク新書)が送られてきた。掛谷氏は、前の著書『学問とは何か』以来、政治的意向によって学問をねじ曲げる者たちを厳しく批判している。今回も、それがさらにパワーアップしたものと言える。中でも、厳しい批判の対象となっているのが、上野千鶴子であり、女性学という学問ならぬ政治活動である。むろん、全体として賛同できる内容だが、「言論責任保証」という、掛谷氏が提唱するシステムがうまく作動するかどうかは疑問で、「NAM」のような末路を辿るのではないかと思っている。
それとは別に、掛谷氏が理系の学者であるせいか、やや人文学について異論のある箇所もある。人文学が「科学」でないというのはいいが、それでも、より客観的なものと、そうでないものとの区別はある。それはまあ、私が書けばいいことだが、人文学の基礎は注釈である。
またたとえば山田昌弘の、博士号をとっても大学に就職できない者が増えているという議論について、掛谷氏は、博士号をとっていても企業は採用する、ただ彼らが、博士号をとった以上大学教師になりたいと思っているのが「フリーター博士」になってしまう原因ではないかと言う。しかしそれは、実用的な理工系の博士のことではないのか。人文学分野で、博士号をとった30前後またはそれ以上の人間が、おいそれと企業で採用されるものだろうか。たとえば文学の博士号をとって、出版社で採用されるか、私は未だお目にかかったことがない。掛谷氏は米国の例をあげているが、米国は日本のような新卒優先採用、終身雇用の国とは雇用慣行が違うのではないか。
また掛谷氏は、男女共同参画の施策が学歴エリートを優遇する結果になっていると厳しく非難しており、これまたその通りなのだが、その理由を、一昔前なら学歴エリートであっても親戚に低学歴層がいたりしたが、今は違うからと書いている。「一昔前」というのがいつを指すのか分からないが、仮に高度経済成長以前だとすると、むしろ今以上に、低学歴、低所得層の者を顧慮しない学歴エリートあるいは富裕層は多かったはずだ。
だから、現在の学歴エリートたちが、「恵まれたお嬢さん」を得させるだけの男女共同参画施策に賛同しているのは、単に彼らがエゴイストだというだけのことで、私はかつてある若いフェミニスト学者が「自分が楽をしたいと思って何が悪いのか」と開き直るのを聞いたことがある。しかし何もそれは最近初めて起きた現象ではなくて、人間の多くは昔からそうなのだ。掛谷氏も触れているが、しばしば、昔はエリートや貴族にはノブリス・オブリジェという意識があったが今はない、という議論を眼にする。さあどうだろうか。明治政府の成立とともに、薩長藩閥出身の者らがいかに私利私欲のために動いたか、よく知られていることである。
また、政治的対立において共通点を見出すための解決策が最後に挙げられている。まず、国旗・国歌に反対する人々の論拠として、「軍国主義の象徴だから」というのが上げられているが、私は国歌が、天皇を賛美する「君が代」だから反対なのである。というか天皇制に反対なので、天皇制がなくなれば「君が代」でもいいと思っている。掛谷氏は両者の融和の道を探っているが、たとえば私が、人間は生まれで差別されてはならないから天皇制に反対だと言っても、人間は生まれで差別してもいい、という人とは融和できないが、はっきりそう言う人たちはむしろ少数派で、この議論に答えない者が大多数なのである。
また何より、マスコミにおける左右対立というのは、「朝まで生テレビ」と同じで、本や雑誌の売り上げを延ばすためにやっているプロレスみたいなもので、「朝日新聞」と「諸君!」が共通の価値を認めたら、売れなくなってしまう恐れがあるから、融和などしないのである。最近の民主党が、政策的に自民党とあまり変わらなくなったために、攻め手がなくて困っているのもそのせいである。
つまり全体としては、掛谷氏は妙に楽観的だと思う。これは前著が出たときにも同氏とやりとりして感じたのだが、やはり同氏が理系学者であるせいもあろう。文系学者の中には、それこそ、学問が科学であるとはまったく思っていない者もいれば、天皇の正しい利用を唱えながら、私を「保守」呼ばわりして議論をしようとしない宮台真司のような卑怯者がどっさりいるからである。 (長いのでつづく)