筑摩書房のPR誌『ちくま』12月号の、笙野頼子の連載「小説」「おはよう、水晶−−おやすみ、水晶」の七回「ヴァーチャル・ナイト」の最後のページで、笙野は名前を出さずに私を中傷している。しかし明らかに私だと分かる。卑怯なことである。筑摩には、反論掲載を打診したが、
 ・名前が出ていないこと
 ・PR誌で、論争の場として適当でないこと
 を理由に載せないそうである。

 ことの発端は、大庭みな子監修『テーマで読み解く日本の文学』上巻に、笙野がおかしなことを書いたのを、私が『新潮45』二○○四年十一月号で批判したことにある。以下、その笙野に関する箇所を掲げる。

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 大庭みな子監修『テーマで読み解く日本の文学』の上巻に笙野頼子が奇妙なことを書いている。「私の知人小谷真理氏の、テクスチュアルハラスメント裁判の結果報告本『叩かれる女たち』中の座談会において、なんだか唐突に上野千鶴子は言う。『大庭みな子』は『論理的でもなく明晰でもなくメイク・センスしない』、つまり『蒙昧文体』を』女性性の鍵』にして『武器に転用』してると、やれやれ、1『女にだけ特定の方法論を要求』、2『女にだけ当人にウラもとらないでどんな方法論を取ったかを勝手に決めつける』、(中略)小声でこそこそ言ったって私はジェイソン笙野、しっかりチェックしているぞ」。
 わけが分からない。(略)何より分からないのは「ウラもとらないで」である。一体どこに、作家を論じるに当たって「ウラをとる」批評家がいるのだろう。
 恐らくこれも、笙野が五、六年以前から続けている「純文学論争」の続きなのだろう。その最初の総まとめ『ドン・キホーテの「論争」』(講談社)が出たのは一九九九年のことだ。発端は、『読売新聞』紙上で某記者が、「最近の純文学は面白くないという気分」が広がっている、と書いたことに端を発している。これに、前衛実験小説の書き手笙野が怒り、純文学擁護の「論争」を一人で始めたのである。しかし、誰も相手にしなかったので笙野は、『群像』など、『少年マガジン』が売れているから出せている、などとサブカルチャー勝利者論を出した大塚英志にからみ、ミステリーで稼いで評論を書いており、文学の保護など必要ない、と書いた笠井潔にからみ、といった具合だったが、笙野のあまりの剣幕に、多くの人が恐れをなして、反論はおろか、「ちょっと違うのでは」と言うことさえを試みなかったように見える。
 さて、私はかつて梅原猛の「戦いは、一人で、まったく一人でしなければならぬ」という言葉を著書のエピグラフに引いたことがある。しかるに、さすがの笙野も、一人で戦いつづけるのは苦しくなったようで、冒頭の小谷真理とタッグを組んだらしく、この辺から笙野の迷走が始まった。小谷は、小谷真理巽孝之ペンネーム、と山形浩生に揶揄されたのを名誉毀損として訴訟を起こして勝ち、「女が書いたもの」が否定されるのを「テクスチュアル・ハラスメント」と呼んで盛んに論陣を張りはじめた。なるほど、山形というのは困った男であるが、現代日本では、作家と言ったら女のほうが多いのではないかと思われるのに、女がものを書くと否定されるだの叩かれるだのと一般論として主張するのは奇妙である。しかも小谷は、『聖母エヴァンゲリオン』だの『ハリー・ポッターをばっちり読み解く7つの鍵』だのと、時流便乗の売らんかなの本をよく出す人で、「売れるからいいとは限らない」という笙野の主張(これは正しい)に照らして、どうなのかと首を傾げざるをえない。
 笙野としては、先の大庭みな子をはじめ、津島佑子のような、あまり売れない純文学女性作家を擁護しており、フェミニストでもなく売れる大衆作家・林真理子あたりは敵になるようで、大庭監修の本でも、嫌らしくも名前を挙げずに林を揶揄している。しかし現代日本「純文学」の奇観とも言うべきなのは、宮本輝高樹のぶ子であろう。文学に見識のある人に訊いてみれば、誰もが、この二人は大衆作家だと言う。宮本など、大衆文学の賞である吉川英治文学賞を取っている。なのに、二人とも、芥川賞三島賞という「純文学」の賞の選考委員をやっている。宮本は、通俗で何が悪い、と書いていたことがあるが、通俗だから悪いのではなく、通俗作家なのに純文学作家のように振る舞うのがおかしいのである。そして、もし私が見落としていたのであれば謝るが、笙野がこの辺りへ攻撃を仕掛けたのは見たことがないのである。
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 笙野はこれに対して反論を書かせろと『新潮45』に言ったらしいが、コラムなのでと断られたらしい。そこで『早稲田文学』二○○五年一月号の「反逆する永遠の権現魂−−金毘羅文学「序説」」の末尾に「反論」を書いた。私はこの経緯も、そういうものが載ったこともまるで知らず、この文章を収めた『徹底抗戦! 文士の森』が出て、初めてそれを見た。まったく反論になっておらず、ただ私を侮辱し、その動機を邪推する、しかも支離滅裂な文章だった。笙野は「ウラをとる」を「裏づけ」の意味だと主張したいようだが、「当人にウラもとらないで」と書いているから、ごまかすしかない。そこで私はブログで反論した。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20050710

 笙野は、柄谷批判をしたと威張っているが、今や「群像」を仕切っているのは加藤典洋で、だから世渡り上手の笙野は加藤と組んでいて、加藤が綿矢りさへの恋文みたいな文藝時評を書いても何も言わない。

 笙野は、吉原真里が私を批判したので、吉原と小谷真理が仲がいいと思って笙野を攻撃したなどと邪推しているのだが、そもそも私の吉原への反論は『アメリカ文学研究』から掲載拒否され、やはりここに載っている。吉原の逃げ腰の答えも載っている。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20060613

 その後で私は、笙野の反論は『新潮45』編集部で見たが、その文章が支離滅裂だったので載せなかった、という話を聞き込んで書いておいたが、笙野から、そんな事実はないと抗議があったと聞いて削除した。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20061026

 笙野は、これあるかなとばかり、最初の、支離滅裂な文章を「告発」と呼び、その「おかしな文章」をどこで見たか、と書いているのだが、掲載を断られたのだから、それは『早稲田文学』のそれとほぼ同じだろうと考えた。そしてそれは十分におかしな文章だった。さて笙野は今回「相手はマスコミでは売れっ子の評論家で「紳士」でもあるがネットでは別の顔がある」と書いている。これは、小谷野敦ではないと言い逃れするために書いたのではないかと邪推する。誰が私を「紳士」だなどと思っているだろうか。笙野はあまり私の本を読んでいないようだから、私が活字でも批判すべきはきちんと批判していることを知らないのだろうか。
 また、「女性学者の実名も晒す」とある。私は、匿名批判は卑怯だと思っているから、卑怯な奴の実名が分かれば、それを公開する。何かいけないかね。しかも、男相手でもやっているのだ。笙野は、私を「女叩き」と呼んだが、発端は笙野による上野千鶴子批判だ。女を批判してはいけないのか? と問うべきか、ではあなたが上野や林真理子を批判するのは「女叩き」ではないのか、と問うべきか、迷ってしまう。要するに「仲間」を批判すれば悪い奴、敵は批判してもいい、というだけのことである。単なる党派根性である。
 それに2ちゃんねる用語の大好きな笙野は、この様子では自分でも2ちゃんねるに書き込んでいるのではないかとさえ思われる。実際、怪しい書き込みがあった際、ブログには佐倉方面からのログがでているし。いや、これは私の妄想だがね。
 しかし『テーマで読み解く日本の文学』はひどい本だった。書評を書くために泣きながら読んだ。読むに耐えたのは伊藤比呂美のものくらいで、だいたい日本の女性作家で評論も書けるのは、河野多恵子富岡多恵子金井美恵子の三人だが、この三人は参加していないんだもの。

 さて、『徹底抗戦! 文士の森』の文章は、仔細に検討した結果、
・侮辱的言辞の多さ
・内容がまったく正当でないこと
・著者が芥川賞等多くの文学賞をとっていること

 に鑑み、提訴可能と判断している。笙野が今後も反省の色を見せないなら、準備が整い次第、東京地裁へ提訴する。「告発」するなら、堂々と裁判所でやりましょう。以下、訴状草案である。


              訴状                    東京地方裁判所民事部御中
               原告 小谷野 敦
               被告 笙野頼子(本名・××頼子)
 損害賠償請求事件
訴訟物の価額  金300万円
貼用印紙額  金2万円                    

請求の趣旨
 1.被告は原告に対し金300万円を支払え。
 2.訴訟費用は被告の負担とする。
 との判決並びに第一項につき仮執行の宣言を求める。  
                                   請求の原因
 被告は、原告による被告の文章への正当な批判に対して反論文を発表したが、その文章は事実の歪曲や誤認に満ちているのみならず数々の侮辱的表現を含んでおり、原告に精神的損害を与え名誉を毀損した。よってその損害賠償を請求するものである。
1、原告および被告の社会的地位
 原告は、東京大学総合文化研究科比較文学比較文化専攻博士課程を修了した学術博士であり、これまで文学等についての著書が二十数冊ある。
 被告は小説家であり、『二百回忌』で三島由紀夫賞、『タイムスリップ・コンビナート』で芥川龍之介賞、『金比羅』で伊藤整文学賞を受賞し、四十冊近い著書を持つ。一九九九年刊行の『ドン・キホーテの「論争」』(講談社)に収められた文章以来、創作活動と平行して、自ら「純文学論争」と呼ぶ論争を行い、多方面を批判する言論活動を行っている。
2、事件の概要
 原告は、二○○四年に小学館から刊行された大庭みな子監修『テーマで読みとく日本の文学』における被告の文章を甚だ奇妙に感じたため、『新潮45』同年十一月号でこれを批判した(甲1)。被告は『早稲田文学』二○○五年一月号に掲載した「反逆する永遠の権現魂−−金比羅文学『序説』」の中で原告に触れてこれに反論し、同年中に河出書房新社から出た『徹底抗戦! 文士の森』にこれを収録した(甲2)。原告はこの単行本が出るまでこの文章の存在に気づかなかった。文学者同士の「論争」であるから、本来言論をもって戦うべきものであるが、被告の文章は甚だしく下品で原告を侮辱するものであり、事実の歪曲、誤認に満ちている。原告はインターネット上のウェブログで被告に反論したが、同一媒体ないしそれに準ずるものではないため、単行本として流通している被告の文章に対して、原告の反論が十全になされたとは言いがたい。また、「芥川賞」の社会的地位の高さから考えた時、社会が「芥川賞作家」の書く文章を信用する危険は多く、あえて損害賠償請求を行う次第である。

3、被告の文章の問題点
a、事実の歪曲または誤認
 甲2号証に基づいて列記する。
 二五二頁十八行、「やってる仕事は女叩き」。そのような事実はない。あるいは「女叩き」という語の意味が明瞭ではないが、原告が何か悪事を働いているかのごとき印象を与える目的で書かれていることは確かである。仮に女性の論者を批判することを「女叩き」と評するとしても、研究者としておかしいと思ったものを批判するのは正当な行為であって「叩き」ではないし、被告はもし原告の批判が「叩き」であるというなら、その根拠を示さねばならない。またそもそも原告の批判文は被告が上野千鶴子という女性を批判したのに対するもので、同時に被告が林真理子という女性を揶揄批判していることにも触れている。
 二五三頁六行目、「暴いてやるよ」。原告は「暴かれる」ような悪事を犯してはいない。
 同十七行目、「結局彼が過剰反応したのは、『ウラを』とらなかったという私の、このフレーズなんだ」。悪質な憶測であり、原告は、作家・文学作品を論じるのに「ウラをとる」というのはおかしいという常識を述べたに過ぎない。
 同十八行目、「そういう批判の言い方に切れた」。悪質な憶測である。
 二五四頁一行目、「だってこの先生、もしほんのちょっとした知識や辞典の一冊もあったら、折角お商売のたねにしている女叩きが『事実無根』って事で使いものにならなくなってしまうものねえ」。まったく事実無根の誹謗中傷であり、被告はこう述べる根拠をまったく示していない。
 同六行目、「彼女が小谷野先生をメッタにしたのは、心底、このような怠け者が許せなかったからかも」。ここで被告が触れている吉原真里による書評には、原告は反論文を書いたが、書評掲載誌『アメリカ文学研究』が掲載しなかったため、やはりインターネット上に載せた。そこで示した通り、吉原の批判は的外れであり、「怠け者」はまったく根拠を示さない中傷である。 
 同七行目、「そこで小谷野氏、その彼女と『タッグ』くんでいると勝手に決めつけて小谷真理氏にまで絡んだ」。「彼女」は吉原真里氏を意味するが、原告は吉原氏が小谷と「タッグ」を組んでいるなどと述べてはいない。
 同八行目、「彼的には小谷とタッグ組んでいると見える私の方にもやつあたりをした」、事実ではない。おかしいと思ったから批判したのであり、「やつあたり」というのは被告の勝手な憶測である。
 同九行目、「私めへのご批判のご趣旨は、例えば笙野が津島佑子等女の純文学批判した事がないから変だつーことその他」。甲1号証に明らかな通り、原告は、被告が津島ら女性純文学作家を擁護する立場をとっているらしいとは書いているが、批判したことがないから変だというのは、宮本輝高樹のぶ子にかかる言葉であり、そのことは明らかに強調されているにもかかわらず、被告はこれを意図的に無視しており、原告の批判の趣旨をねじ曲げている。

b、侮辱的表現
二五二頁十八行目、「匿名よりも身分は下で」
同二十行目、「女に対するとより一層この汚らわしいC級ニュー評論家としての」
二五三頁三行目、「無知御免の馬鹿御免」。その根拠を示していない。
二五五頁一行目、「げっ、てめえの臭い謝りに! ハエでもとまりゃあ上等だ!」
以上、刑法上の侮辱罪に相当し、民事上の不法行為に該当する。
 
 被告も原告も言論を業とする者であり、一般的にはこのような論争は裁判に持ち込むには馴染まないものである。また、被告の文章が筋が通っていれば、侮辱的であっても受忍しえたであろうし、逆に筋が通っていなくともこれほど侮辱的でなければやはりささやかな反論をもって受忍しえたであろう。だが、筋が通らずかつ侮辱的であることによって、この文章は耐えがたく、また文章を収めた書物は公共図書館等に広く流通しており、中には原告の文章を見ずに被告の文章だけ読んで、原告が何か不当な言い掛かりをつけたかのように誤解している読者も多い。かつ、従来の文学論争の類を見ても、この被告の文章のように、「便所の落書き」と呼ばれるインターネット掲示板のごとき下品なものは見たことがない。
 芥川賞作家として遇されており、新聞にエッセイを書くことも多い被告が、このような支離滅裂かつ他者を誹謗する文章を書くことは原告にとって耐えがたい苦痛である。よって損害賠償を請求し訴に及んだ次第である。