http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2011/koyano427.pdf
 結局、「最後」にはならなかったようだ。なお「詭弁」のところは、まったく訂正の必要を認めない。これは、鈴木氏が筆が滑ったのだと考えるほかない。(鈴木氏はこれまでのやりとりを移動してトップページに写したので、これまでの私のリンクが切れたため、このトップページのURLを貼っておいた)。
 なおこのやりとりで、はじめ私は常体で書いていたのだが、鈴木氏が敬体で書いてくるので困り、途中から常体敬体が混じるようになり、おかしな文体になった。今回は常体で通す。
 鈴木氏は、私の書いたものを読んでいないと言い、その一方で、私が鈴木氏の仕事をちゃんと読んでいないと言う。これはおかしいようだが、仕掛けたのが私のほうだから、ということなのだろう。だが私が問題にしているのは、『「日本文学」の成立』の冒頭部分、および「純文学/大衆文学」の区分についてである。また私は「戦略」といった考えをとらないし、学問は価値中立的であるべきだと信じている。
 「読まずに書いた」ということをしつこく繰り返すのはやめてもらいたい。私が問題にしているのは冒頭の文章である。長い著作では、途中で筆が滑ることもあるが、冒頭の、この本は何を書いた本か、という文章が間違っているのである。間違った文章が冒頭に掲げられていれば、おかしな本だ、ということは書いてもいいのである。鈴木氏は盛んに、ちゃんと読め読めと言うが、冒頭の文章がおかしいという疑問には、ちっとも答えられないのである。
それから、海外の研究者が感心してくれた、といったことも、言わないほうがよろしい。鈴木氏は、海外の日本研究者が集まる研究所の近代文学の担当者なのだから、媚びることもあるし、第一、感心する人だから鈴木氏のところへ来るのである。
 西洋にも純文学/通俗小説の区別があることは、『聖母のいない国』に書いた通りである。ないし、そもそも「キャノン」なるものから、探偵小説やハーレクイン・ロマンスの類が外されているのは当然のことだが、あえて言うなら、小倉孝誠がフランス文学についてそういった仕事をしている。『歴史と表象』は歴史小説、また『推理小説の源流』もあり、当然のごとくに「大衆小説」の語は出てくる。実は私は、鈴木氏がこういった仕事を参照していないのではないかと疑っているのだ。東大比較の出身者にもそういう人が多いのだが、日本近代文学とか西洋文学の専門家の意見を聞くということが、なぜできないのだろう。紅野謙介が疑義を呈しているとなったら、普通日本近代文学の人は信用しないはずである。

今日、「純文学」が危機に瀕しているから「そういう基準は必要だ」という立場であることは了解できます。が、その基準自体、1961年ころの「純文学変質論争」がつくった歴史的産物にすぎません。それ以前を、そんな図式で見るのはおかしい、とわたしは言ってきたのです。

 1961年に出来たというのはとうてい認められない。1949年に中村光夫が『文藝往来』に書いた「中間小説」にも、藝術家としての矜持を失いたくないが売れたいという作家が「中間小説」を書いているのだろうとあるし、だいいち鈴木氏自身、1935年頃に成立したと言っているし、横光の「純粋小説論」ははっきりと「通俗小説にして純文藝」と書いている。またこの鈴木氏の文章は、はじめ現代のことを言いつつ、あとは「それ以前」のことになっていておかしい。鈴木氏は、1994年1月26日の読売新聞夕刊でも、文学の不信を打開するために純文学/大衆文学の区別をなくせと書いている。
 私は浅岡邦雄氏の仕事については、実証的で優れたものだと思っている。鈴木氏も、実証的なこと、ないしは梶井研究など純文学批評もしているのは知っている。
 私の「通俗小説」は、言った通り批評の分野における言語であり、阿部和重の『シンセミア』を優れた作品と認めつつ、一歩間違うとサスペンス小説になるな、などと思っている。

宗教的主題を扱えば、すなわち「純文学」だと考えるのは、まったくの倒錯です。文壇の人びとが、こういうおかしな観念に取りつかれているところから、尐しでも解放したくて、『文学界』に『悪しき因習』を連載したのです。

 ここは、鈴木氏は意味を逆にとっている。三浦綾子は宗教的主題を取り扱っているが純文学扱いされなかったと私は言っているのである。鈴木氏は文壇での三浦の低評価くらい知っているだろうと思って、はしょったのである。
 群ようこは、残念ながら、1990年頃が全盛期だったと思う。だが、私は文学賞というのは、功労賞的なものがあってもいいと思う。
尊王思想のところだが、私は明和事件のようなことを言っているのである。キリスト教の場合、「カエサルのものはカエサルに」という文言があるから、ローマ皇帝には都合が良かったが、それでも法王と皇帝の覇権争いは起きている。その辺は『天皇制批判の常識』に詳しい。
 なおスキームという語は少し違うと思ったが、「慣れると」と挑発されたので書いたまでである。鈴木氏は、私を若いと見ているようだが、私は漱石が死んだ歳に近づいていて、若いという意識を持ってはいない。どうも鈴木氏の見方では「四十、五十は鼻たれ小僧」のようで、よろしくない。いろいろと忠告を受けているが、私は、なるほどこれはいかん、とは思えないのである。鈴木氏の小説歴を書いたことは余計だったかもしれないが、むしろそれは、鈴木氏の全体をとらえようとしたからである。未だに私は、「純文学」でしかありえない小説を書いていた鈴木氏が、何を思って、純文学と大衆文学の区別をなくせ、というのか理解できない。何度も言うが、どちらともつかない小説というのはある。だが、純文学でしかありえない小説はあり、通俗でしかありえない小説というのはあるのだ。
 私は、通俗を低く見ているのではない。だが、通俗小説と同じ基準で純文学作品を読まれて、「面白くない」と言われてはたまらん、と思っているだけである。たとえばアメリカ文学の世界では、アリス・ウォーカーは通俗だとされている。しかし黒人問題を描いているから純文学だと誤解する学生がいて、教師が困っていたりするのである。
 なお鈴木氏は『考える』『概念』『成立』をそれぞれ違うものだとしているが、たとえば、これは愛知教育大の西田谷洋の文章だが、
http://poetic-effects.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-bbdd.html
「中村・柄谷・前田その他各氏の先行論者を批判し貞美メソッドを開陳する貞美文学史の最新版。ホントにバージョンとしての「版」だと思う。」とあって、私と同じように、同じことをヴァージョンアップしているのだととらえる人がいる証拠である。
 ずいぶんいろいろと忠告があったが、私は鈴木氏が、純文学と大衆文学という区別、ないしは「純文学」という概念がないほうがいい、と言う理由を未だに聞いていないのである。説明しないでおいて、理解していないだの捏造だのと(それは些細な言葉尻でしかない)言われて難じられても困るのである。まあ私から見れば悪罵を投げつけているのは鈴木氏のほうなのだが、どうしたものか。
 私が批判しても、大物が反駁してくることはあまりない。しかしこれは私でなくても、大物というのはそういうもので、それは要するにあちらが逃げているのだと解釈する。鈴木氏はそれを、「バカバカしいから相手にしないのだ」と言うかもしれないが、卑怯な人はおおむねそういったことを言うものである。しかし鈴木氏の場合、柄谷行人から相手にされていないとも言えるから、自分は正しいが柄谷が卑怯で答えないのだ、小谷野はまるでなっていないから相手にされないのだ、と二重基準を設けたら失笑ものだろう。分かっている人は云々と言われても、私のほうでも、このやりとりを見たら鈴木という人はずいぶんおかしな人だなあ、と人は思うだろう、と思って、むしろ心配しているくらいである。あまりこれは言いたくないのだが、阪大にいた頃、西洋人で日本近代文学を研究に来た女性に会ったことがあるが、鈴木氏のところで学ぶよう勧められたが、神経質な人で恐ろしいと言うから困っている、と言っていた。それはお前も同じだろうと言われるかもしれないが、鈴木氏の場合、地位があり、海外から日本近代文学をやりに来ると鈴木氏のところへ行かされることが多いのである。責任重大なので、黙過しえない。私は「弁明」などしていないし、むしろ鈴木氏が、論点をずらしたり、前後矛盾することを言ったりしているのだ(海外にも大衆文学があると前には言い、今度はそんな区別はないと言ったり)。
 「文藝時評」というものが、「文藝雑誌」に載った小説を主として対象にするというのは私もおかしいと思う。しかしそれなら、種村季弘高橋源一郎のように範囲を広げればよいだけのことだ。阿刀田高もそうだが、五木寛之井上ひさしの評価が低いというのはまるでおかしい。第一、杉本苑子田辺聖子文化勲章をとり、井上ひさしが藝術院会員になる時代に、何を言うのであろうか。

歴史と表象―近代フランスの歴史小説を読む

歴史と表象―近代フランスの歴史小説を読む

 
(付記)西洋19世紀の大衆小説については、専門家は知っているし、当地には研究書もあるのだが、日本ではほとんど知られないという状況である。かろうじて、『金色夜叉』の粉本として知られたバーサ・クレイの『女より弱きもの』が堀啓子によって翻訳されており、松柏社から、亀井俊介先生の監修で「アメリカ古典大衆小説コレクション」八巻が出ているが、中には「オズの魔法使い」「ベン・ハー」、アプトン・シンクレアの「ジャングル」などもある。また邦語による著作としては、
・佐藤宏子『アメリカの家庭小説 十九世紀の女性作家たち』研究社、1987
アメリカの家庭小説―十九世紀の女性作家たち

アメリカの家庭小説―十九世紀の女性作家たち

 があり、その序文では、女性作家が書く通俗小説ばかりが売れて、自分らの「純文学」が売れないという、メルヴィルホーソーンの嘆きが紹介されている。
・進藤鈴子『アメリカ大衆小説の誕生 1850年代の女性作家たち』彩流社 2001
アメリカ大衆小説の誕生―1850年代の女性作家たち

アメリカ大衆小説の誕生―1850年代の女性作家たち

 もある。山形大学の中村隆は、ヴィクトリア朝英国の「センセーション・ノヴェル」と言われるものを研究しているが、まだ単著にはまとまっていない。ただ「sensation novel」でアマゾン米国を検索すれば、関係書はたくさんある。
 普通に英米仏の文学史など見ていても出てこないものはたくさんあるのだが、女性作家の場合、フェミニズムの視点からの再評価という文脈でこうした研究書は出来上がっている。もっとも、米国の大衆文学については、亀井先生がいるのだから、何を今さらで、私は亀井先生の授業に初めて出たら、いきなり、「バチビン小説って知ってますか」と言われて、要するに村上浪六なのだが、「そういうのを、読むんですよ」と言われた(私にではなく数名の受講者に)のを覚えている。