『比較文学比較文化研究室通信』というのが届いて、平川先生の『アーサー・ウェイリー』出版記念会の様子がレポートされていたのだが、驚いたのが中村和恵のスピーチで「自宅の前に、平川先生に似ている郵便配達者が来たと思ったらご本人だった、という、愛弟子宅への突撃訪問を好む」という話。中村は都内に一人暮らしのはずで、いくら愛弟子でも女性一人暮らしのところへ突撃訪問しちゃまずいでしょう、先生…。
 鶴田欣也先生も、晩年盛んに中村和恵に電話していたらしく、ガンだと分かる前だとしたら、中村というのは何かそういう老人の慰撫に力を発揮する人なのだろうかと思ったことであったが、だいたい平川先生は、それ以外に誰のところを突撃訪問しているのであろうか。
 

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柳美里の『石に泳ぐ魚』は、最高裁で出版差し止めされたのに、新潮社が強行出版したのだと思っている人がいることが分かった。当時、原告側が非難したからそう勘違いしたのだろうが、裁判所が差し止めているのに出すわけないだろう…。でも滋賀県のほうで裁判所命令を無視した市長もいたけど。

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今日は二つも、私のインタビューやコメントで「僕」を使っているのを目にしてしまった。私は「僕」とはいわない。「俺」ならときどき使うが、僕は、芝居のせりふでもない限り、ない。もう十年前から言い続けている。

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http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20061031
この表題だが、その後『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』213pに「例えば詩人の俗物性抑圧性という事で笙野がまず思い出すのは荒川洋治である」とあった。
 また同書225pには大活字で「東ヲタ紀なんか自然主義ロマン主義まで一本化しやがって柄谷二次元近代よりまだ単調! 批判の価値もねえ!」とあった。最近、笙野は東を批判しないとどこかのコメント欄で書いたので訂正いたします。