『一冊の本』が届くと、後ろの新刊広告から見て行くが、私は金井美恵子先生の随筆へ行くのを遅らせて、楽しみを先にとっておくのである。さて今回は、佐村河内守騒動から、映画『砂の器』のあの音楽へと話が及び、『現代思想』2005年3月の松本清張特集で、小森陽一と対談する成田龍一が、『砂の器』は原作と映画とテレビドラマとでは「微妙に設定が違ってきています」と「さらに間の抜けたことを発言しつつ、専ら日本の戦後史の凡庸な見取図を」とか、現在『群像』に連載されている朝日新聞文芸時評担当の片山杜秀の文章を「ある種の学者が使用するです・ます体の体言止めの多い文章で…と、無気味な調子で続ける」などと大変痛快である。
 ところがその同じ『現代思想』に佐藤泉が書いた、1960年ころの文学状況の、割と凡庸なものについて「純文学論争」という名で呼ばれる論争の「火付け役は、一般に言われるように平野謙ではなく大岡昇平だったのかもしれない」とする佐藤の鋭い視点も」と来たから、は? となったのは、そんなことは福田恆存がその当時指摘したことだからで、驚いて当の『現代思想』を見てきたら、佐藤は「福田恆存が推測する通り」とちゃんと書いているのである。だから現物に当たらないで金井先生の文章を読むと、まるで佐藤が福田の指摘を知らずに「鋭い視点」のつもりで書いているように見えて、金井先生が時々やるチョンボだな、と思ったことであった。