吉原真里との議論(復活)

 「都立大英文掲示板」というところで吉原真里の『聖母のいない国』への書評への反論を載せたら吉原から返事が来たのでさらに返事をした。しかし掲示板が消えてしまったようなので、ここに再掲する。(下から読んでね)

■ 吉原さま / 小谷野敦

吉原真里さま
 お便り拝読いたしました。変則的な場に載せたものでしたので、何より、お目にとまったことが確認できて喜ばしく、また「黙殺」もされなかったことを、吉原さまの誠実さの証しとして受け取っておきます。
 さてしかし、私信でやりとりを続けたいというお申し出については、首肯いたしかねます。もし吉原さまがさらにお返事をしたいというのであれば、やはり公の場で行うのが筋でしょう。「理解できない箇所」があるのでご質問なさりたいとありますが、私はお答えの中で、『恋愛の超克』『中庸、ときどきラディカル』『男であることの困難』『江戸幻想批判』『夏目漱石を江戸から読む』と、拙著の題名を五つ挙げておりますから、これらをお読みになれば大抵はお分かりになると思います。それでもお分かりでない場合、私のメールアドレスが書いてある本がございますので、その際はそちらへどうぞ。

 どうも、これまでの経験から私も疑り深くなっておりまして、「私信で」などと言われますと、裏取引へのお誘いを受けているのではないかと思ってしまいます。
 「小谷野さんの著書を厳しく批判した書評を書くことが、どのように処世の足しになるのか」というお訊ねですが、都内某有名大学教授が、吉原さまの書評を読んでいたく喜んでいたなどと無責任な噂を流す輩がおりまして、つい誤解いたしたようで、失礼いたしました。またご著書については、私も数多く本を出しておりますから、編集者の要請で不本意な題名をつけられてしまうことが少なくないことはよく存じております。恐らく吉原さまも「成功する方法」などという題名はつけたくなかったのを、押し切られてしまったのでしょう。イラク攻撃に反対する署名に名を連ねながら、あたかも米国が世界の中心であることを示唆するかのような題名の本を出すことはさぞ無念であったろうとご同情申し上げます。昔ならこういう題名は、プレイブックスとかごまブックスしか付けなかったものですが、日本の出版界も、特に新書乱立の状態でなりふり構わなくなっているのですね。
それでは、お元気で。
小谷野敦


No.37 2004/06/16(Wed) 14:04

小谷野敦さんへの返答 / 吉原真里

小谷野敦さんへの返答

アメリカ文学研究』に掲載された小谷野敦著『聖母のいない国』についての私の書評に対する小谷野さんの反論を拝読いたしました。小谷野さんにとって決して快い書評でないことは十分承知しておりましたし、私が自分の著書について同様の批評を書かれたらやはり異を唱えたくなるだろうと思いますので、このような形で小谷野さんが反論を発表されることには共感をおぼえます。

小谷野さんのご著書に関する私の批評が的確であるか否かは、ご著書と私の書評の両方を読んだ読者が判断することであり、ご著書そして書評の中の具体的な事項について、私と小谷野さんがこうした場でこれ以上議論を続けるのは生産的でないと思います。小谷野さんの反論や問いの中に私が理解できない箇所もあり、せっかく意見を交換するのであれば私としても小谷野さんの議論を理解したいので、もし小谷野さんがご希望であれば、個人的な通信でお話ししたく存じますのでご連絡ください。ただ、私の書評および小谷野さんの反論を通じて、アメリカ文学会内および関連分野の研究者や文学批評家のあいだで、少しでも学問的・文学的に意味のある議論が交わされればよいと思っております。

私が小谷野さんのご著書の書評者として適任であったかどうか疑問だ、というご意見ですが、その点については私も同感です。ご指摘の通り、私は小谷野さんが数多くの他のご著書の中で展開されてきたご説や、それらのご説をとりまく日本の論壇における議論をフォローしてきた人間ではないからです。もちろん、書評を引き受けるからには、小谷野さんの他のご著書にも目を通すのが学者としての義務、というご意見は、ごもっともです。「アメリカ文学研究」の編集委員会から私にご著書の書評の依頼があったので、私の専門やバックグラウンドの見地から、本書をアメリカ文学研究の著書として1冊の完結した作品として読み、批評することを期待されていると理解し、そのような姿勢で書評を書きましたが、他のご著書に目を通さないのは学者としての怠慢ということについては、ご批判を真摯に受け止めます。反論執筆にあたってわざわざ私の古い論文にまで目を通し脚注までチェックされる小谷野さんの勉強ぶりを見習い、態度を改めようと思います。(しかし、いくら私でも『坊っちゃん』は読んでいます。)

小谷野さんは、私が『アメリカの大学院で成功する方法』という本を書いていることから、私が学問的真実の追求よりもアメリカの学界の潮流に乗って「成功」することを重視している人間と思っておられるようです。私自身の学問や政治に対する姿勢についてこうした場で議論をするのは意味のないことですから、そうした見方についていちいち反論するのは控えます。また、著者の意図と違う読み方をする読者がいるのは当然のことですので、私の著書を読んでそれをアメリカの学界における単なる処世術を述べた本と理解する読者がいるのだとすれば、それは悲しいですが仕方のないことだと諦めます。ただ、小谷野さんは反論の最後で、私の書評は私の「成功」のための布石ではないかと示唆されていますが、いくらなんでもこれは無茶な勘ぐりです。そもそも、仮に私が学界での立身出世を第一に考える人間だとしても、小谷野さんの著書を厳しく批判した書評を書くことが、どのように処世の足しになるのか私にはわかりません。私は今後も当分はアメリカの大学に拠点をおいて仕事をしていくつもりですし、依然としてコロニアルな構造の強いアメリカの学界の現状において、(特に私のようにアメリカ文化を専門にしている者にとって)日本語の本についての日本語の書評を日本語の媒体に掲載したところで、はっきり言って、書評者の業績にはほとんど意味をもちません。立身出世を考えるのなら、こうした仕事の依頼は丁重にお断りして、自分の研究をアメリカの大学出版社から出すことにエネルギーを注いだほうがよっぽど「賢明」です。私が批判的な書評を書いたのは、それがご著書についての研究者としての私の率直な評価であり、よいと思えないものを「よい」と書くことは私の職業的倫理が許さないからです。学問とは政治と別のところで真実を追求するものだと、小谷野さんが本当に信じておられるのなら、私の個人的な動機などを勘ぐるよりも、学問上での建設的な議論を展開していただきたいと思います。

吉原真里


No.36 2004/06/13(Sun) 03:21

吉原真里氏に答える / 小谷野敦 引用

 日本アメリカ文学会の学会誌「アメリカ文学研究」40号(2003)に、拙著「聖母のいない国」の書評が掲載されました。なかなか厳しい書評でしたので、お答えさせていただけるかどうか委員会にお尋ねしたところ、編集委員長・折島正司先生の名義で、反論は掲載しないとのお答えをいただきました。幸い、折島先生は都立大教授でいらっしゃいますので、この場を借りて吉原氏へのお答えを公表させていただきたく存じます。推参ながら、ご理解くださいますよう。

 吉原真里氏に答える−−拙著書評に対して
                            小谷野敦
 『アメリカ文学研究』第40号に、拙著『聖母のいない国』(青土社)の、吉原真里氏による書評が掲載された。アメリカ文学会会員でもない私の本を書評にとりあげていただいたことをまず感謝したい。
 しかしながら、吉原氏の書評はなかなか厳しいものであったので、お答えしたい。日本の商業的な新聞・雑誌等は、基本的に褒め書評しか載せず、批判的な書評を書くと依頼原稿でも没になることがある。それを思えば、『比較文学研究』誌上での木村直恵氏のもの(81号)に続いて、かくも厳しい書評が載ることは、学術誌ならではのことであって、学問の規矩が商業主義とは別個に存在することを喜ばしく思う。
 さて、『聖母のいない国』は、吉原氏も言うとおり、学術書というより、一般の文学愛好家向けのエッセイ集であって、『英語青年』(二○○二年十月号)の書評で米塚真治氏が述べたとおり、学問的新しさを問えるものは、せいぜいヘンリー・ミラーの章くらいであろう。ここで私の立場を述べておけば、文学研究というものは、実用科学としてそのまま役に立つものではないから、研究内容を一般向けに平易に書くことも学者の責務のうちであろうと考えており、本書もその一つである。とはいえ、新しい視点がまったくないとも言えない、程度には自負している。
 さて、吉原氏の書評には、いくつかの問題点がある。第一に、『聖母のいない国』は私の十二冊目の単著である。この十二冊の中には、一般向けエッセイの類、あるいは本書とまったく関わりがないと言ってもいいものもあるし、一冊を除いて、一見したところでは英米文学とは関係がない。しかし、吉原氏が『聖母のいない国』の「もっとも重大な問題点」は、本書で使われている「ジェンダー論」や「フェミニズム」について、具体的にどういうものを指しているのか分からないことだ、と言う以上、社会学者や日本文学者相手に、こうした問題について具体的に批判している諸著作を参照するのが筋だったのではないか? 吉原氏はさかんに「読者」という語を用いているが、それはどのような読者なのか。ありとあらゆる想定される読者を対象に本を書くなどというのは不可能である。また、十二冊目の本を書く者は、それ以前の著書に書いたことを全て繰り返さなければならないのだろうか。具体的な例をあげれば、最後のほうで吉原氏は、私が「堕胎罪」は必要だ、と述べた箇所を引用しつつ、「無責任」な文章で、「週刊誌のコラムならともかく」、このようなものが「文芸誌に掲載され」「評論」として受け入れられるなら「憂うべき事
態」だと書いているが、妊娠中絶の自由化を主張する前に、なぜ「望まない妊娠」をしてしまうか考えるべきだ、ということは、『恋愛の超克』(角川書店)の中で詳しく論じている。あるいは、フェミニズムに関して具体的な批判は、本書の後に出されたものではあるが、書評を書くには十分間に合った『中庸、ときどきラディカル』(筑摩書房)で行っている。それこそ週刊誌に載るようなやっつけ書評ではないのだから、私の他の著書をざっとでも目を通すのが、学術誌にこうした厳しい書評を書く以上、義務ではないだろうか。
 もう一つの問題点は、十三点のエッセイを収めた本書の書評で、本格的に論及している
のは『風と共に去りぬ』を扱った章、内容に触れているのは『エイジ・オヴ・イノセンス』を扱った章くらいで、ほかの章は一部を引用しているのみで、残り十一点について、「なんら新しい視点を提供していない」ことを吉原氏が論証しているのかどうか、疑問だという点である。興味深いことだが、先に触れた木村氏の書評もまた、『風と共に去りぬ』と『エイジ・オヴ・イノセンス』の章を中心に批判している。私は木村氏の書評にはあえて活字では反論せず、私信を出すに止めたが、それは木村氏のものが、明らかに政治的な論難だったからである。(付記・木村氏からの返信には、「問題なのは小谷野さんがまだ定職を得ていないことです」と書いてあった。政治的学問の世界では、定職を得ていない人には遠慮する必要があるらしい。笑止千万である)。だが、さすがに吉原氏は、政治的な意図を表に出していない。これもまた、別途述べたことだが、「フェミニズム」に対する私の立場を吉原氏のために繰り返すなら、そもそも学問は政治運動ではない。だがこの数十年ほどの、北米の人文科学の一部は、この区別をいよいよ曖昧にしつつある。その最たるものがフェミニズム、ついで文化研究と称するものであって、吉原氏は私がフェミニズムを「軽蔑」していると言うが、政治と学問を混同するような学者は、もちろん軽蔑している。吉原氏は、私が「政治的公正さ」を批判した箇所を引用して、そうした議論は「ここ数十年間の文化批評の潮流と逆行するものであるから、そうした説を展開するのならば、きちんとした裏づけと分析をもってするのが賢明であろう」と言う。「潮流と逆行」するとはどういうことか? 学問とは、潮流に棹さすものなのか? また「賢明」とは何か。私は、学者に必要なのは、誠実および勤勉という徳であって、「賢明」などという処世術ではないと信じている。「賢明」という一語は、はからずも吉原氏にとって、「真実」よりも、学界の潮流にうまく乗ってアメリカの大学院で成功することのほうが重要なのだということを示しているだろう。   
 しかし、「フェミニズム」といっても、米国のそれと日本のそれとでは当然ながらあり方が異なる。私は専ら、西洋の理論を導入して、歴史も社会構造も異なる日本に当てはめようとする日本のフェミニストを批判してきたので、北米の大学に学んでハワイの大学に勤務する吉原氏に意味が分からない部分があるのはやむをえない。ある国で書かれた論文を、別の言語に翻訳しようとする時、共有された前提となっていることが多いため、補いつつ訳さなければならない、ということは、拙著『男であることの困難』(新曜社)二二七頁以下に書いた。そこで既に指摘している通り、他国の者が読めば、そうした論文は論理が飛躍しているように見えるのである。さて、その本で私が、吉原氏は知らないだろうが日本の知的階層においては代表的な「フェミニスト」と見られている上野千鶴子らを批判した際、日本近代文学金井景子から、上野だけがフェミニストではない、と書評された(『図書新聞』九八年一月十七日号)。その時は納得したのだが、こうした言い方が「フェミニスト」の常套句であることは、その後日本の知識階層の間では広く知られるようになっていった。吉原氏もこの書評でその種のことを言っている。その際私は、「個人的なことは政治的である」というラディカル・フェミニズムのテーゼに対して、異性にもてないという個人的なことも政治的なのか、と問い掛けたのだが、以来六年余、誰もこの問いにまともに答えてはいないから、既にこのテーゼは崩壊したものと私は見なしている。(付記・菅野聡美の『<変態>の時代』講談社現代新書は好著だが、「個人的なことは政治的なのだ」と書かれている箇所があった。私の議論を菅野氏がどこで論破したのか知らないのでメールを出したのだが返事がない。もしかするともう無効のアドレスを使ってしまったのかもしれないので、どなたか菅野氏に連絡してください)。また、これも吉原氏の与り知らないことだが、吉原氏によれば「一部のフェミニスト」が近代的結婚制度を批判しているのに対し、私は、では徳川時代の、一夫多妻制と売買春の上に成り立つ男女関係のほうが良かったのか、と問うた。それに対して金井は、そのようなフェミニストばかりではない、と答えたのだが、『聖母のいない国』一六四頁の付記に述べた通り、金井は素知らぬ顔で近代的結婚制度を批判している。やはり日本近代文学の関礼子もまた、前近代の性は聖なるものだったなどという説を述べた書物に評価を与え、『江戸幻想批判』(新曜社)で私がこれを批判しても、沈黙を守っている。また心理学者の小倉千加子は、『聖母のいない国』二三八−九頁で述べたように、あたかも結婚制度によって男たちは妻から「無償の愛」を獲得するかのようなことを言っている。吉原氏は、私の「フェミニズム」に対する「理解の欠如」を指摘するが、もしそれが本当だとすれば、いま挙げた「フェミニスト」たちが、私の疑問に答えようとしないからである。むろん、日本の「フェミニスト」のレヴェルが、米国のそれより低いのは、厳然たる事実である。日本では未だに『売春の社会史』や『強姦の歴史』や『レズビアンの歴史』に匹敵する自国の女性史は書かれておらず、社会学者や日本近代文学者たちはそれこそ歴史に無知で、西洋人が書いた歴史をもとに日本の女性学を支えようという無謀な試みを行っている。もちろん本書はアメリカ文学に関するエッセイ集だが、日本語で書かれている以上、アメリカ文学を読む日本人向けに書かれており、そこで「フェミニスト」と呼ばれているのは、専ら上記のような日本人フェミニストなのだということを、吉原氏は理解すべきである。日本では、デレク・フリーマンの『マーガレット・ミードとサモア』で否定されたミードの『サモアの思春期』を依然として重要参考文献としてあげる学者、失敗であることが明らかにされたジョン・マネーとパトリシア・タッカーの『性の署名』に固執する学者、エリザベス・ロフタスによって否定されたジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』の「抑圧された記憶の回復」説を「政治的」に利用しようとするフェミニストたちがいるのである。しかし北米でもフランスでも、科学として論証されたことなど一度もない精神分析を用いて論文や評論を書く者が、フェミニストであるとないとを問わずごまんといることを吉原氏は嘆くべきである。
 さて各論に移る。まず分からないのは、吉原氏が拙著を「表層的」だと評した、その言葉の意味である。八○年代以後、いわゆる「文学理論」の類が跋扈したおかげで、文学作品は至るところでその「深層」を探られ、精神分析のような非科学的な道具が用いられたために、空理空論としか言いようのない「論文」が多数書かれた。私はただ、そうした批評はしないことにしただけである。もちろん吉原氏は、精神分析を用いろなどと馬鹿な主張をしているわけではない。また確かに、日本の知的読者を対象とした拙著は、そういった読者ならば知っていることについて、わざわざ注をつけることをしていない。たとえば、「純文学/大衆文学」を区別するのは「文体」だという議論が繰り返し出ている、と私が書いた箇所を、吉原氏は、「説明がまったくない」と言うのだが、これは筒井康隆、清水良典といった日本の書き手たちが言っていることで、なるほど吉原氏には分かりにくかったかもしれない。あるいは、「19世紀に書かれていれば『純文学』だった題材でも、
20世紀に書かれたら大衆文学だ、という説明」について、「そんな論はとうてい成り立たない」と吉原氏は言うのだが、私は『ジェイン・エア』が1950年に書かれたらとても「純文学」として評価されないだろう、ということを言っているのであって、なぜ成り立たないのか理解できない。私はむしろ、『カラー・パープル』や『ジョイ・ラック・クラブ』、宮本輝高樹のぶ子が、一部でとはいえ「純文学」扱いされていることに疑問を呈しているのだ。(ところでここで吉原氏は、「ジェイン・トムキンズ」は「ジェイン・トンプキンズ」の誤りだと書いているが、『天国の猟犬』の詩人は一般的に「フランシス・トムスン」と書かれているし、ジョージ・ガモフの科学物語は「不思議の国のトムキンス」と訳されている。発音の際にほとんど現れないpを表記しないのは、決して特殊なことではない)。また吉原氏は「『風と共に去りぬ』は大衆文学だ、という非難は、繰り返し現れてきた」という記述に対して「誰がどういう場でそうした『非難』をしてきたのか、説明が欲しいところである」と言うが、私があげたパイロンの本は、まさにそうした批判に対して再考を促す書物である。吉原氏の論文「オリエンタリズムの修正・家庭性の再構築−−パ−ル・バックの『大地』における権威とジェンダー」(『アメリカ研究』三○、一九九六)には、『大地』が「文学的に未熟で、退屈で、教訓じみており、『純文学』というよりは女性の感傷小説である」と批判する批評家がいた、と書いてあるのだが、不思議なことに、誰がどういう場でそう批判したのか、注が付いていない。なるほど八年前の論文だし、吉原氏自身がそのような批判を受けたのかもしれないが、これは紀要論文ではなく、査読者のある学会誌であるから、その程度の自明なことは書かなくても査読者から書き直しを要請されないということを示しているだろう。要するに吉原氏は「インネンをつけている」のだと考えるほかない。この調子では「シェイクスピアは偉大な作家とされてきた」と書いても、「誰がどういう場でそんなことを言ったのか」と評されそうである。
 「小谷野氏は、『『風と共に去りぬ』はなぜ『大衆小説』なのか?』という問題について、なんら筋の通った答を出していない」と吉原氏は言う。私は、先の「文学史的」理由、トムキンズが言うように、多くの読者を獲得すると大衆文学にされてしまう、という理由、そして公民権運動による批判、さらにヘレン・テイラーの本から引用して、フェミニスト的な反撥をあげている。それとも吉原氏は、現象の原因は単一でなければならないとでも言うのだろうか? 「『風と共に去りぬ』はなぜ「大衆小説」なのか?」というのは、レトリカルな章題に過ぎない。吉原氏はこれをもって「問題設定」と見なし、答えが出ていない、と言うのだが、なるほど北米の大学院でペーパーを書くに当たっては重要な問題だろう。しかし北米の大学院における論文作成術は、日本で一般向けエッセイを書くに際して参照する必要はないのである。たとえば、『論語』やプラトーンの対話篇を、あるいはベンヤミンスーザン・ソンタグのエッセイを、北米の大学院の論文執筆の基準に叶っていない、と吉原氏は言うだろうか。ここで、北米の大学院におけるペーパー執筆の手順を世界標準のごとく信じて疑わないことには、やや疑念を覚える。とはいえ北米でも、フランスの著者の、とうてい論理的に書かれているとは言えないもの、クリステヴァラカン、シクスーやイリガライは、私が留学していた十二年ほど前には随分盛んに読まれていたものである。そのようなものは今では北米の大学からは排斥されているとすれば、幸いである。
 あるいは、スカーレット・オハラと黒人乳母マミーの関係について、吉原氏は、私が「小説が描いている歴史・社会的状況と、小説における表象のありかたを混同して」おり、「白人と黒人の不均衡な関係をミッチェルが描いたこと」ではなく、「その不均衡な関係について、小説全体がどのようなメッセージを発しているかということが、政治的な議論なのである」と述べているが、もちろんそんなことは分かっている。ここでも吉原氏は、私が分かっていることは分かっていて、インネンをつけている。私は、スカーレットとマミーの関係が差別的なら、『坊っちゃん』における主人公と清の「主従」関係も差別的なものになってしまう、と書いたのだが、吉原氏は『坊っちゃん』を読んだことがないのではないか。『坊っちゃん』は、全体として、坊っちゃんの男性的矜持を、彼の味方である清が保証する構造を持っているということは、『夏目漱石を江戸から読む』(中公新書)で詳しく論じているし、その関係が、資産家の息子とその乳母という身分制的な関係であることも、日本の読者、ないし私の他の著書を読んでいる読者にとっては自明だと思ったから詳しく書いていないだけであって、となると、日本語で日本の読者向けに書かれた本書の書評者として、吉原氏が適任であったかどうか、疑問なしとしないのである。
 あるいは吉原氏曰く、スカーレット・オハラヘンリー・ジェイムズシャーロット・ブロンテのヒロインと比較することに何の意味があるのか、「比較文学の観点から納得のいく説明はない」。「比較文学」というのは、狭義には、別の国、ないし別の言語で書かれた作品の影響関係を調べるもので、同じ英語文学同士を比較するのは「比較文学」ではない。私はここで、スカーレットは必ずしも目新しいヒロインではないが、五十年早く発表されていたらもっと高く評価されたかもしれない、と言っているのであって、はっきりと書いてあることをなぜここで繰り返さなければならないのだろう。その後の、『平家物語』や『仮名手本忠臣蔵』が、既存の物語の語り直しである、というのも、『風と共に去りぬ』が南北戦争以後数多く語られた物語の集大成、語り直しだとマルカム・カウリーが批判しているのに答えたもので、著作権の概念がない時代には、焼き直しでも優れていれば評価されたが、近代になるとそうはいかなくなる、と言っているのであって、そんなことは普通に読めば分かるのに、吉原氏は「果してどんな点が明らかになるのか」と意味不明の批判を行っている。
 本書のあとがきで私は「文学研究なるものはその性質上どうしても科学的ならざるものを含まざるをえ」ず、「評論」でもいいが、「科学的にみておかしな部分はなるべく排除して『評論』」を期待したい、と書いた。吉原氏の書評は、ほとんど否定的言辞に満ちていながら、この議論は間違いである、とはっきり指摘した箇所が一つもない(「リ−ヴァイン」が「レヴィーン」の間違いだという指摘が、もし正しいとしたらこれだけだ)。トピックが飛躍しているという批判は多いが、「論理の破綻した・・・説は数多くある」と言いつつ、そのような箇所は一つも指摘されていない。
 吉原氏は「フェミニズムに精通していない読者には議論の土台がわかりにくく、多少フェミニズムを学んでいる読者には氏の論が独断と偏見に満ちた暴走と見えてしまう」と書いている。「精通していない読者」は「多少学んでいる読者」を含むはずだから、論理的に破綻しているのはこうした文章のほうである。もし吉原氏が「多少」という副詞を「十分に」という意味だと誤解しているのでなければ。さて吉原氏は盛んに「読者は」分からないだの困惑するだのと言っている。しかし、自分でこういうことを書くのは烏滸がましいが、『聖母のいない国』は、私自身にも意外なほどの好評をもって迎えられ、サントリー学芸賞を受賞した。吉原氏は、私に隠れた政治力があるのではないかという楽しい妄想を抱くかもしれないが、悪口の多いことで知られるインターネット上の個人サイトでも「名著」などと呼ばれている。吉原氏は、日本に「反フェミニズム勢力」が増殖しつつある徴候としてさらにこれを憂えるかもしれないが、はっきり言っておこう。女性をめぐる諸問題、すなわち強姦、ドメスティック・ヴァイオレンス、賃金格差、強制売春等々は、当然ながら改めていくべき問題である。だが、九○年代以降の学者フェミニズムは、そうした「実践」がアカデミズムの功績にならないため、「異性愛者こそカムアウトすべきだ」とか「サイボーグ・フェミニズム」とか「テクスチュアル・ハラスメント」とか、現実に対してほとんど貢献しない下らない言葉遊びに憂き身をやつしてきた。紫式部という女性が『源氏物語』のような世界的名作を書いたことを、和辻哲郎のような例外を除いて中世以来誰も否定しなかった日本で、ジョアンナ・ラスの議論が当てはまるわけがないのである。知的な一般人は、既にそうした学者フェミニズムの無効性に気づいているというだけの話だ。
 フェミニズムを含めて、政治的公正さを現実の社会に求めたいのであれば、政治運動をすればいいのであって、文学研究などする必要はない。『聖母のいない国』の連載をしていたのは三年前のことで、その当時は、こうした「政治的学者」は、本気で女性やら被抑圧者やらの解放を願っているのだと思っていた。しかしこのところ、英米文学や日本近代文学の「政治的」論文の類を読んでいると、どうも彼らが本気でそうした政治目的の達成を望んでいるのではなく、ただ学界の「潮流」を睨みつつ、「大学院で成功」するために書いているのではないかという疑念が沸くことが少なくない。もちろんそこには、オーウェルが『一九八四年』に描いた「ダブル・シンク」の類がある。吉原氏の書評もまた、何らかの「成功」のための布石ではないかとの疑念を禁じえないのである。この疑念は、今後吉原氏がますます立身出世した暁には、確信に変わるだろう。吉原氏が今後もますます「成功」の道を歩むことを期待しつつ擱筆したい。

No.35 2004/06/01(Tue) 16:32