小平麻衣子の更生

 小平(おだいら)麻衣子という近代日本文学研究者がいる。今は日大教授だが、以前は埼玉大助教授だった。八年前に私は小平を批判したことがあるが、その際、その悪文家ぶりについて戯文を書いて、発表の機会がないまま眠っていた。さて今年、小平は博士論文を『女が女を演じる』として刊行した(新曜社)。これは優れた論文集で、実際私はある程度小平に期待するところがあったのだが、悪文癖も直り、バカフェミニズムからも脱却した。その内容については別途書くことにして、記念にその埋もれた文章を掲げておきたい。(ちなみに、美人である)

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 数年前に没した、亀井孝という言語学者がいる。もう十年ほど前になろうか、この人が『季刊文学』(岩波書店)という雑誌に、「しあわせあしきシナのために」という論文を載せた。題名から推察されるとおり、「シナ」という国名が敗戦後、使うべからざるものとなっていったことを、その国名の由来などを織りまぜて語ったもの、のはずなのだが、読んでびっくりしたのは、その異様な文章であった。紙幅の都合で引用しないが、私は、論題の性質上、わざとこういう異様な文体を用いたのかと思ったが、そうではなく、亀井は晩年、なぜかこの種の悪文を書くようになっていたらしい。二年ほど前、朝日選書から出た『お馬ひんひん』は、悪文を書くようになる前の亀井の論文集である、と呉智英さんは言うのだが、それもかなりの悪文である。
 ところで、悪文といっても、そう侮ったものではない。悪文なら自分にも書ける、などと思ってはならない。単に文章が下手であるだけでは立派な悪文とは言えないのである。そこには、読者をして抱腹絶倒せしめる、ないし唖然とさせるオリジナリティーがなければならない。かつて朝日出版社から出ていた『エピステーメー』という雑誌は、いわゆる「現代思想」系の、特に難解な文章を集めていて、これを読んであまりにわけが分からないのでゲラゲラ笑っていた人がいる、という伝説もある。けれど、その種の難解系悪文というのも、ちょっと凡庸になってしまった気がする。
 実は最近、すばらしい悪文の書き手が現れたのだ。その名を小平麻衣子という、日本近代文学の研究者である。小平は、二年ほど前、NHKのラジオ講座で『尾崎紅葉』を講じ、そのテクストも出版したので、紅葉に関する一冊の本というのはなかなかないこともあって、私は早速買ってきて読みはじめたが、途中まではもちろん、ラジオ講座だから、そんなに難しいことはない。ところが一旦、作品分析に入ると、突如文章がおかしくなり、何を言っているのか分からなくなるのである。もっともこの時点では、単に力量不足なのだろう程度にしか思わなかった。が、小平の悪文藝は、次第に磨きがかかってきて、『文學界』八月号(2000年)の、亀井秀雄『明治文学史』の書評で遂に炸裂したのである。この書評も、九割くらいはまともな文章である。ところが最後のほうで、亀井が、最近のフェミニズム批評による樋口一葉研究を、つまらない公式論でしかありません、と書いたのを紹介した直後、小平悪文藝は、まるで仮面ライダーの変身のごとく、突如として開花する。引用しよう。

だが、講義からおよそ五年も経た今日的視点からなされる問題の再構成と、当時の現場にだけ許された知の生成の緊張感のふいの蘇生との葛藤によって、あるいは多様性の構築を読者に委ねるという自制によって、批判がまさに空白をはらんでしまうとき、これらが卓越した男性研究者こそが支えてきた一葉研究史にさらなる一ページを加える、まさに「文学史」の構築として見えてしまうのは皮肉である。

どうです。オリジナルな悪文というのは、ここまで格調高くあらねばならないのである。もちろん、蓮實重彦の影響とかもあるが、蓮實の文章は残念ながらもっと明晰である。小平は、「小森陽一先生の師匠である亀井秀雄先生だからはっきり言えないけれど、フェミニズム批評にけちを付けられては困ります」と言いたいわけで、それがこうした文章として結実する。時に抑圧が優れた文学を生むように、こういう先輩への遠慮が書き手のうちに葛藤を生ぜしめる時、みごとな悪文を生むのである。もっとも、同じ『文學界』十月号の『明治西洋料理起源』の書評では、その種の遠慮は生じていないが、「メディアがメディアである以上、それによって再現される均質な共同体などむろん想像上のものにすぎないし、まして思想や文学を指標とすれば、それらはむしろ即物的な開化に日常的に触れ得ない不満を埋め合わせる手段であるかも知れない、という想像はメディアと現実の乖離の不安を上塗りする」と来る。要するに「資料によってしか明治のことは分からない、不安である」というのを小平語で書くとこうなるのだ。
 私は最近、「小平麻衣子」という署名を見ると、楽しみでしかたがない。よってここに、第一回悪文大賞を小平氏に贈呈したい。今後も、藝に磨きをかけてすばらしい悪文を披露していただきたいものだ。
 (下のほうだけ読んだ人は上のほうもちゃんと読むこと)
  (小谷野敦