二年前から東大教養学部が全面禁煙になってしまったので、非常勤講師室に喫煙室を作るよう総合文化研究科長・学部長に要請してきたが、おそらく他にも要望があったのだろう、四月から「喫煙室」が作られた。ところが、まるで独房である。建物の入り口のところに、まずドアを開けると給湯室があり、さらにその向こうに、ドアで遮られた喫煙室があって、狭い上にどまんなかに煙を吸う装置、椅子はない。換気扇はぶんぶん回っている。「座って吸える場所がない」と文句を言ったのに、なんで椅子がないのか。私は講師室から椅子を持っていって吸ったが、実に不快だった。この1mlたりとも煙を吸いたくないという考え方は、ヒポコンデリーもいいところである。
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 あまり最近は読んでいなかったのだが、ふと立ち寄った書店に『サイゾー』があったので立ち読みしたら、「M2」に内藤朝雄後藤和智がゲストで来ていた。ところで中公新書ラクレ希望学』に載っている玄田有史宮崎哲弥の対談は、もと『中央公論』に載ったものだが、なかで玄田が、昔はニートのような人も共同体に受け入れられていたが、今は違う、と言ったのに対し、宮崎がさりげなく「田舎から都会へ出てきた人の孤独感は強かったでしょう」(大意)と異を唱えている。内藤も玄田も、過去を美化する点では同じ穴の狢である。『サイゾー』でも、内藤が一人で言いたいことを言うのに対して、宮崎が異を唱え、最後に、その文体を変えたほうがいい、文体を変えるということは思考も変えることだ、と言っている。内藤はおどけた回答をしているが、相手が宮崎だと媚びるのかな。文体を変える前に、人の文章を事前検閲したり、対決を避けたりする生き方を変えたほうがいいと思う。内藤に許してもらうようなことは私はしていない。許しを乞うべきなのは内藤のほうだろう。
 後藤は、『「ニート」って言うな!』の自分の文章は、名指しで批判しているところが特徴だとか言っていたが、何ものかを批判するのに、誰が言っているか明らかにするのは学問のいろはであって、誰が言っているのかはっきりさせずに批判するのはデマゴーグである。だから名指しをしていない内藤の文章は、デマゴギーなのである。当然のことをしているだけなのに、特徴だという後藤は、怪しい学者の書いたものばかり読んできたのだろう。
 宮台は、相変わらずダメ。「ジェンフリフォビア」などという、「ジェンダーフリー」自体が怪しげな和製英語なのに、それにフォビアをくっつけるネオロジズムぶりで、親父が悪いと、壊れたレコードのように相も変らぬ「オヤジ悪玉説」を繰り返していて、どうして宮崎哲弥がいつまでも宮台のような堕ちた偶像と一緒にやっているのか、不思議である。  (小谷野敦