奇書

 塚本康彦(1933− )の『ロマン的人物記』(明治書院、1998)をある関心から図書館で借りだした。塚本は古典日本文学専攻の中央大学名誉教授だが、後年は近代文学について多く書いた。そしてこれは、同人雑誌『古典と現代』に載せられた、祖父、久松潜一ドナルド・キーン築島裕といった人たちの追悼文や思い出の記を集めたものだが、これがなかなかの奇書である。文体は、こう言っては後先が逆だが、森見登美彦ふう、かなりの自意識過剰ないし自己陶酔、親戚、知己自慢めいた風があって、やや見逃せない部類の本であった。

ロマン的人物記

ロマン的人物記

                                                                            • -

前にオタどんに教えられたミネルヴァ書房のPR誌『究(きわめる)』の創刊号を入手。巻頭言が芳賀先生で、沓掛良彦枯骨山人、木下直之猪木武徳日文研所長、杉山正明、木村幹、SJさん、富永健一(夫妻の写真あり)といった面々で、多くは連載のようだ。しかしSJさんのは、相変わらず勉強していない様子がありあり。きっとそのうちキリスト受難劇の話も出てくるんだろう。
 あと最後に後藤励という甲南大准教授の経済学者が「たばこはいつから体に悪いとされてきたのか」の連載をしているのだが、近年の変化は別に肺がんとの因果関係が証明されたからではなくて、「受動喫煙」と奴らが称するものの害が声高に言われたからであって、後藤はそこのところをごまかしている。
 ところで後藤らの「行動経済学」というのは、人間は経済合理的に行動するものではない、という当たり前のことを言っているだけで、依然として経済学というのは阿呆な学問だと思う。後藤らは、「なぜ喫煙がやめられないのか」といった問題設定をするが、むしろ「なぜ…をやれないのか」という風に設定したほうがいい。いい大学へ行けばいい社会的地位が得られるのだから、高校生はすべからく懸命に勉強すべきである。懸命に勉強したがいい大学に行けなかったということもあろうが、それができない者らというのが大勢いるのであって、そんな一生の大事に関わることですら人間は合理的に行動できないのであって、そんなことが学問の対象になるのであろうか。