『新潮45』昨年十一月号で私は笙野頼子上野千鶴子を「女にだけ当人にウラもとらないでどんな方法論を取ったかを勝手に決めつける」と批判した(大庭みな子編『テーマで読み解く日本の文学』小学館)のを、どこに作家を論じるのにウラをとる批評家がいるか、と書いた。笙野は反論を載せろと言って断られたと主張しているが、それは私の全く知らなかったことである。それで、『早稲田文学』一月号に「反論」(?)を書いたらしいのだが、これも知らなかった。今度上梓された『徹底抗戦! 文士の森』(河出書房新社)に載ったので初めて読んだのだが、いくら前衛実験作家だからといって、論争する時は普通の文章で書いてほしいものである。(削除)また笙野は、その敵であった大塚英志のファンである『群像』編集長が規制してきたため、それをかいくぐる必要があって、これまでの論争文が支離滅裂になったのだと主張しているが、では『早稲田文学』編集長も規制したのだろうか。
 いろいろ考えたのだが、とうてい活字で反論するには値しない。議論としてはチンピラのレベルである。だが書いているのは、群像新人賞野間文芸新人賞芥川賞三島賞泉鏡花賞伊藤整賞受賞の輝かしい作家である。困ったからここに載せておく。
 まず、「女にだけ」と言うからには、『上野千鶴子が文学を社会学する』で庄司薫宇能鴻一郎を論じている上野は、当人にウラをとって論じたと笙野は思っているのだろうか。しかし庄司に会っていれば、『赤頭巾ちゃん気をつけて』一作で庄司が消えたなどとバカな間違いはしなかったはずだ。さらに、ではテネシー・ウィリアムズメルヴィルは、どうやって当人にウラをとる? イタコにでも呼んでもらうのだろうか。
 というわけで、正面からは勝てないと踏んだ笙野は妙な手段に訴え、『アメリカ文学研究』という学会誌に載った吉原真里による私の『聖母のいない国』の出鱈目な書評を引用して、そこに「裏づけがない」と書いてあるから、私が「ウラ」という言葉に過剰反応したのだと無茶な論理を展開する。誰だってあんな文章を読んだら、笙野の正気を疑うだろう。さてこの吉原書評に対し私は反論掲載を求めたがアメリカ文学会から断られたので、「都立大英文科掲示板」というところに載せた。(付記・当該掲示板が消えてしまったので再掲した。http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20060613
見れば分かるとおり、吉原は同じ場所で、これ以上こうした場で議論をしても生産的でないから私信をくれと言ってきた。これでは裏取引に誘われているようなので私はその場で断った。笙野はこのやりとりを見ていないのか、というに、その後で、小谷野は吉原が小谷真理とタッグを「くんでいると勝手に決めつけて」と言うのだが、私は吉原と小谷がタッグを組んでいるなどとはどこにも書いていない。それこそ裏づけを出してほしいものだ。
 さらに笙野は、「笙野が津島佑子等女の純文学批判した事がないから変だ」と私が言ったと書き、津島は『金比羅』を評価してくれたがいつだって(津島に対して)刀抜くぞと大見得切り、「もし私が見落としていたら謝るが」という私の文章を引いて下品に罵倒している。ところが私がこう書いたのは、津島佑子批判ではなく、明らかに大衆作家なのに純文学作家として振舞っている宮本輝高樹のぶ子に関してなのだ。ところが笙野の文章はそこを歪曲していて、宮本の「み」の字も高樹の「た」の字もない。笙野の「二百回忌」の三島由紀夫賞授賞に唯一反対したのが選考委員宮本輝であったはずだが、やはり純文学業界では、宮本・高樹批判はタブーなのだろうか。ならば、そういう権力者作家という真の敵には物が言えないで、大塚英志のようなヌエ的存在、あるいは文壇外の人物である上野千鶴子、大物ながら大衆文学界の存在であるため笙野の今後に影響しない林真理子などにつっかかるしかなかったというのが笙野頼子「論争」の正体だったのか。今度の本で笙野は、柄谷行人批判を行っているが、今や柄谷が文壇的に碌な力を持っておらず(文学賞の選考委員など一つもやっていない)、一般読者からも見放されているのは明らかで、だいたい自分が所長をしている研究所に自分の息子を研究員として入れるような人が「資本制批判」などやっていても、私たちはただ、柄谷が革命に成功したら北朝鮮のごとき世襲体制を敷くだけだろうと、ありえないのをいいことに楽しい空想に耽るばかりであろう。

 笙野は同書の最初のほうで、日本のインテリ・エリートを批判してその特徴をいくつか挙げている。中には「近代しか判らない」「歴史と地理を黙殺している」など、その通りだと思うものもある。だが「今の純文学やアヴァンポップを読めないので」というのは、「純文学や白樺派」とでも言っているようなカテゴリーのずれを感じるが、だいたいアヴァンポップとは何か? こんな特殊な、いわば「J文学」みたいな概念をいきなり普遍的用語のように使わないでほしい。どうもこれはラリイ・マキャフリイとかいう人のそういう題の本が出ているのだが、その訳者の一人は巽孝之なのだから、まあ笙野は小谷・巽派の一員であるということが否応なく分かってしまうのである。笙野はどうせ『聖母のいない国』を読んでいないのだろうが、小谷が『テクスチュアル・ハラスメント』の題で編訳したジョアンナ・ラスの『女の書くものをいかに抑圧するか』は、マーガレット・ミッチェルパール・バックを無視、エリカ・ジョングは批判している、とそこに書いてある。自分が気に入った女作家は「抑圧されている」と叫び、気に入らない女作家は自ら抑圧する、そのやり方は笙野とよく似ている。なお昨年笙野はアメリカ文学会で講演をしており、そこでマイケル・キージングの名を挙げているが、『聖母のいない国』の書評をするから英文要約を作れと言われて、ネイティヴ・チェックを有料で頼んだのがこのキージング、「真珠湾などは米国が侵略した土地だ」と書いたら、英語で書くときはこういうことは書かないほうが賢明だ、とコメントしてきたのがキージング。そりゃ「アメリカの大学院で成功」するにはそんなこと書かないほうがいいでしょうね。笙野先生、せいぜい純文学方面には配慮に配慮を重ねて、谷崎賞野間文芸賞、毎日藝術賞といった出世の道を歩んでください。

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こういうのを「ウラをとらない」と言うのだ。
                           (小谷野敦