谷崎潤一郎詳細年譜(昭和2年まで)

jun-jun19652005-06-07

(写真はナオミのモデル、義妹の小林せい子)

1926(大正15・昭和元)年         41
 1月、「為介の話」を『婦女界』に発表、「友田と松永の話」を『主婦之友』に連載、5月まで。草人、ジョン・バリモア主演『海の野獣』に出演。
   6日、家族を伴って出発、長崎に四、五日逗留。
  長崎滞在中、長崎市大浦ジャパンホテルに宿泊。
   8日、長崎を訪れ永見徳太郎に会う(「長崎南蛮余情」)、ここで広東犬を見て欲しくなる(「きのふけふ」)
   9、10日、神代種亮、長野草風「谷崎潤一郎と語るの記」『読売新聞』
   11日の新聞に、ニースで武林無想庵の妻・中平(武林)文子が情夫に銃で撃たれ軽傷との記事が出る。
   12日、県立長崎図書館へ行く。濱本宛書簡、新年の挨拶と中平文子事件に触れ無想庵に同情。
   13日、午後一時長崎出帆の日本郵船長崎丸に一人で乗船、乗船前に、上海の土屋に電報を打つ。
   14日、午後三時、上海着。もっぱら一品香ホテルに滞在。この間、マジェスティックホテルにも二、三日宿泊する。
  谷崎来滬の記事、上海の新聞に掲載される。
  土屋宅に招かれる。功徳林にて土屋主催の邦人による歓迎会。宮崎議平の紹介で内山完造を知る。内山書店二階で顔つなぎの会、田漢、郭沫若、欧陽予倩と知る。会の終了後、田漢、郭沫若と一品香ホテルで夜十二時まで談論。
   29日、新少年影片公司で文藝消寒会が開催される。任矜蘋、陳抱一と知る。出席者七十名以上。大酔し、郭らに介抱されて宿に帰る。
   30日、中央公論社、株式会社となり、麻田、嶋中、松林恒が取締役。
   31日、フランス租界のエンパイア・シアターで任矜蘋監督の映画『新人的家庭』を鑑賞し、任と談論する。
   同日から2月24日まで歌舞伎座で左団次主演「信西」上演される。
 同月末、岡成志、岡山県真庭郡から衆議院議員補欠選挙に立候補、朝日新聞を退社、鶴見祐輔も立つが岡は破れ供託金も没収される。
 2月、「一と房の髪」を『婦女界』に発表。
   2日、上海より中根宛書簡、「一と房の髪」は感心しないので何か別のものを、帰国後相談。新聞で、西条八十(35)が帰国の途次上海到着の記事を見る。
   12日、旧暦大晦日、欧陽予倩宅にて会食。
   14日、土屋の記念帖に揮毫。このころ、田漢とともに陳抱一宅を訪問、広東犬を譲り受ける。
   17日、午前九時出帆の日本郵船長崎丸に乗船。
   19日、午後三時、神戸港に到着。(以上、西原)
 同月、『鮫人』を改造社から刊行。
 3月、『小説月報』に沈端先訳「富美子的脚」掲載。精二「火を恋ふ」を『改造』に発表。
  金子光晴(32)、支那旅行にあたり谷崎から添え状を貰う。
 春、和田六郎、学校を卒業し、再び岡本へ来る。谷崎は梅ノ谷へ仕事に出掛けており、この間に、六郎と千代の情事起こる。
 4月5日、精二宛書簡、終平(早稲田中学在学中)の病気は八分通りいいけれど、残りがどれくらいかかるか分からないので、いったん東京へ帰したい。末(25)はまだ京都の病院に入院中。得三がこの頃また大阪へ来て、病気だといって金を借りにくる。
   15日、土屋宛書簡、アラビアンナイト購入の礼、近日北京から改造社社員・上村清敏なる者がとりにいく、淫本だが大丈夫だろう、「上海交游記」第一回分はもう印刷でき、二回目と併せてお送りする。
   15日から19日の間に、家族と吉野山から奈良へ旅行。
   19日、戯曲「金を借りに来た男」を『改造』5月号に発表。
   20日、京都祇園花見小路吉初にて、里見紝(39)と遊ぶ。ここから濱本宛葉書、二三日中に伺う。
   26日、猿之助、八百蔵ら出演の『天一坊と伊賀亮』封切、観る。
 5月、「上海見聞録」を『文藝春秋』に掲載。5・6・8月、「上海交游記(後に「上海交遊記」)」を『女性』に掲載。大阪角座で「十五夜物語」上演。
  精二、「生きて居る」を『中央公論』に発表。
 岡成志は神戸又新日報に入社。
   10日、土屋宛、洋画家九里四郎、近藤浩一路の二人の紹介状。上海で展覧会を開きたい旨。
   23日、土屋宛、18日付け手紙、アラビアン・ナイト上村より受け取った。また印形の件につき、まだ届かず、土屋が託した銭痩鉄というのはどういう人か。宮崎から珍しい本を貰ったが住所が分からないのでお礼状を同封するので渡してほしい。
 この月から十月にかけて、佐藤春夫、妻タミの従妹・きよ子との恋愛事件が起こる。
   26日、東京向島の前田とせい子宛、何とか商売でもさせてやりたいがまだ信用ができない。毎月百円は送る。
 6月19日、『改造』7月号の支那号に田漢が「昼飯の前」を寄稿、これは谷崎宛送ってきたものを谷崎が修正しつつ濱本に筆記させたもの。(「きのふけふ」西原)
 7月5日、土屋宛書簡、昨日東京の銭氏から印形郵送してきた旨。飯嶋からは何の便りもない。「上海交游記」完結したので近々長崎支店長宛送る。宮崎へ寄贈の本も送る。この印形は「摂州武庫郡岡本」「谷崎潤一郎」。支那で造らせたものらしい。
   12日、阪急岡本から濱本宛、信州の干しそばを頼む。
   19日、「青塚氏の話」を『改造』8−12月号に連載。
   20日古川緑波と会う。
   21日、岡本の家で、岡田嘉子との対談。編集長の古川緑波と岡田を終平が案内したという(「回想の兄」)。
   23日、奈良北市町のK・R・サバルワル(33)宛書簡、ローマ字、お手紙ありがたく拝見、先日は珍しいインド料理をご馳走に、26日は忙しいので行けません、来月か再来月に、志賀、九里によろしく。サバルワルはインドの独立運動家。
   同日、午前十時から神戸市栄町の神戸又新日報本社重役室で語る。その後、又新日報の有坂忠平の須磨離宮に近い邸に、岡に呼ばれて行き、鮑少游夫妻と令嬢、米窪満亮、奥屋熊郎、亀高文子らと歓談する(24日又新に記事、「三つの場合」)
   31日、前田とせい子宛、今懐具合が悪いから来月になったら送金する。
 8月、淡路島へ旅行。「都市情景」を淡路洲本の旅宿なべ藤で脱稿。なべ藤の主人は福浦安郎(大谷)
   1日、大阪松竹座で「海の野獣」封切、観る。
   6日、東京館で「スエズの東」封切、観る。 
   20−25日、戯曲「白日夢」を『中央公論』9月号に発表。
   9月号の『文章倶楽部』に、神代種亮の「執筆中の谷崎潤一郎氏」が載り、昔のことを回想しているので、古くからの友人でもない神代がなぜ、これは笹沼から聞いたものに違いあるまいと不快に思う。
   26日、神代の件で中根宛書簡、不快であり神代はこれまでも度々断りもなく私のことを書いているので、次号で訂正をしたく思うがどうか。
   28日、土屋宛、土方伯は友人なので紹介するがその巻物は誰が持参するのか。印形の代金のこと。
 9月、『映画時代』9月号で、岡田嘉子との対談。大阪松竹座で「白狐の湯」上演。
  神代の件で、「釈明」を書いていると神代から手紙来、笹沼に聞いて書き、最後に「失名氏談」とするつもりだったとあるが、事実誤認もある、と書いて5日脱稿。
   9日、土屋宛書簡、土方への紹介状、浜町の土屋の兄宛郵送、この秋土屋帰省京阪地方へ立ち寄るとのこと楽しみ、九里、近藤も呼びたし。
   10日?上京、偕楽園に泊まり、小田中タミから電話を貰い、佐藤春夫の留守中に訪問、八日夜付けの春夫の手紙を読む。佐藤は魔女事件で君の気持ちが理解できた、妻が君の夫人に会いたいと言っている、と書いている。(佐藤「去年の雪いまいずこ」)
   11日?佐藤を再び訪ね、和解なる。
   24日、佐藤宛書簡、こんなに早く和解がなるとは思わなかった。せい子は東京へ帰った、伊勢はブラジルへ行く、また夫人連れで来てくれないか。その後君の方の事件はどうか。スタンダールの『パルムの僧院』英訳(The Charterhouse of Parma)を今読了した、感嘆(Scott Moncrieff の英訳、1925)
   25日頃、「釈明」を『文章倶楽部』十月号に掲載。
 伊勢の夫中西、平次郎の例を見て移民を思いつき、この年渡伯。
 同月、現代小説全集第十巻『谷崎潤一郎集』を新潮社から、『赤い屋根』を改造社から、『潤一郎喜劇集』を春秋社から刊行。
 10月、随筆「都市情景」を『週刊朝日秋季特別号』に掲載。生まれ故郷である東京が、騒がしくて嫌いになったと言う。谷崎と和解したことによって、「この三つのもの」、この月を最後に中絶。
 同月、栗原トーマス死去、追悼文を記す。本山村岡本好文園第二号に転居。
   15日、阪田重則監督『お艶殺し』(東亜キネマ・甲陽撮影所)、浅草遊楽館で封切、主演は出雲美樹子・森英治郎。
 11月、「栗原トーマス君のこと」を『映画時代』に掲載。 
 同月、弁天座で新作浄瑠璃法然上人恵月影」を観(この年文楽座焼失)、文楽を見直す。
  京都、奈良方面を回る。
   20日、新潮社中村武羅夫(41)宛書簡、帰宅すると楢崎勤(27)から書面が来ており、自分は『新潮』の新年号へ書く約束をした覚えはなく、『改造』を済ませたら『中央公論』より優先すると言ったまで。
   23日、「猫の家を訪ねて――谷崎潤一郎氏の猫の趣味談を聞く」『大阪朝日新聞』。この記事を見て隅野滋子と武市遊亀子が訪ねてきたという。
 12月19日、「『九月一日』前後のこと」を『改造』1月号に掲載。
   25日、天皇死去、昭和改元
 同月、高等小学校時代の恩師稲葉清吉、電車に撥ねられて死去、56、7歳。森田安松死去。
 この頃、終平、マラバー夫人平尾かずえの前夫との子、別役(べっちゃく)憲夫と親しくなる。後に別役は東京外語露語科を出、結婚して満州へ渡り、1937年、別役実生まれる。
 この年、草人、ロン・チャニー主演の『マンダレーへの道』に出演。

1927(昭和2)年         42
 1月、「日本におけるクリップン事件」を『文藝春秋』に発表、同月から「顕現」を『婦人公論』に連載(4月、8月は休載、翌年1月で中絶)、「ドリス」を4月まで『苦楽』に連載、未完。
 同月、佐藤春夫、「去年の雪いまいづこ」を『婦人公論』に連載開始。渡辺温、博文館に入社、『新青年』編集に携わる。嶋中、「中央公論」主幹を兼ねる。
   8日、新潮合評会で芥川の発言。
   11日、「百華新聞」に記事「谷崎潤一郎氏と猫」松阪青渓執筆か。 
   16日、東京朝日新聞社土岐善麿(哀果、43)宛書簡、先般ジャパンタイムズ不破氏の件手紙受け取る、「お艶殺し」英訳の件差し支えなし、翻訳者岩堂にも承諾の旨を返事した。岩佐眉山のこと迷惑かけた、打ち切りにしましょう。
   19日、「饒舌録」を『改造』2月号より連載(12月完結)。第一回で、近ごろはうその話でないと面白くない、と書く。
   21,2日頃、フランスでの「愛すればこそ」上演について外務省から連絡。
   27日、土屋宛書簡、「今年も仏蘭西行きをやめて支那へ行かうかと思って居ります」とあり、フランス旅行を考えていたことが分かる。掃葉書院で『李長吉集』などの購入を依頼、銭崖に蔵書印を頼む。同日濱本宛書簡、『パルムの僧院』の英訳を読んで感心した、英訳が二種類あると言っている。もう一つはThe Chartreuse of Parma で、Lady Mary Loyd訳、1901年頃だが「よくは知りませんが前に出てゐる英訳は完訳であるかどうか余りいい訳ではないやうに思ひます」とある。
 2月、『新潮』2月号の「創作合評」で、芥川が、「話の筋」が藝術的か、と発言する。
   13日、現代日本文学全集第二十四篇『谷崎潤一郎集』(円本)を改造社から刊行。   16日、濱本宛書簡、明日の夜汽車で山本実彦に会いに上京し、四月号の創作の件は自ら断る、「先日も申した通りの事情であるのに・・・無理を云はれるのは不愉快」とあり、湯葉と麸を東京へ土産に持っていくので京都駅で渡してほしい、汽車の時間と号車は電報で知らせる。
   19日、「饒舌録」第二回で、芥川の発言に反論する。佐藤春夫「潤一郎。人および藝術」を『改造』3月号に掲載。帝国ホテルで、芥川、佐藤、久米と徹夜で話す。
   26日、芥川、「文芸的な、余りに文芸的な」第一回を脱稿。
   28日、芥川、大阪中央公会堂で改造社の講演会に佐藤、久米、里見と出席し、その夜佐藤と偶然会った富田砕花とともに谷崎宅に泊まる。
 3月、木佐木勝中央公論編集長となる。
   1日、谷崎夫婦、佐藤夫婦と芥川の五人で、弁天座の人形芝居「心中天網島」を観て、その夜は谷崎と芥川で大阪の旅館千福に行き、語り合って一泊。
   2日、帰ろうとしていると、芥川に会いたいという芦屋夫人がいると女将に聞かされ、芥川は帰ると言って自動車に乗るが谷崎が説得して引き返し、根津松子(25)が訪ねてきて、谷崎は松子と初めて知る。松子に誘われてダンスホール・ユニオンに行く。芥川は踊らずただ眺めていただけ。以後松子と親しく交際するようになる。(大谷、千葉説)   6日、小山内宛書簡、来簡に答えたもので、小劇場で「法成寺物語」上演の件承知、貴下と土方氏で遠慮なく台詞をカットしてくれ。だがその後行き違いがあり、手紙の上で喧嘩になったらしい(小山内追悼文)。
   7日、丹後峰山大震災。谷崎恐怖する。
  この頃、芥川から、谷崎が欲しがっていた『即興詩人』二巻本、続いて『コロンバ』英訳を送ってくる。
   11日、芥川書簡、ゴヤ画集を見付差し上げようと思ったが金がなくて諦め、代わりにフランス語のインドの仏像集を送った旨。論争の最中にものを貰ったため谷崎は依怙地になり、終平に送り返せと命じた。自殺の後、後悔したという。
   19日、芥川、「文藝的な、余りに文藝的な」を『改造』4月号より連載開始、谷崎に答えて、「詩的精神」をいい、「話らしい話のない小説」こそ「最も純粋な小説」だと言う。
   22日、奈良市上畠町サバルワル宛英文書簡、ダンスホールのパリジャンで新しい女の子を見つけた。
 同月、『愛すればこそ・愛なき人人』を改造社から刊行。
 4月4日、『婦人公論』編集長嶋中雄作宛書簡、「顕現」五月号分の短いことを謝る。京都は震源地なのでここに落ちついている。「饒舌録」は口述。
   7日、芥川、平松麻素子と帝国ホテルでの心中未遂。
   15日、濱本宛書簡、貝葉書院で『元亨釈書』があるかどうか知らせてほしい。
   16日、堺市の隅野滋子(大阪府女子専門学校英文科)宛書簡、また誘い合わせて遊びにいらっしゃい。隅野は新聞に掲載された猫を抱く谷崎の写真を見て、猫が見たいと谷崎を訪れたという。その後、翻訳の手伝いを頼んだらしい。
   19日、「饒舌録」で芥川に答える。
 同月末頃、土屋に京都で会うか。
 5月始め頃、土屋から礼状と銭の印届くか。
   3日、西隆一に土屋宛書簡を託し、先日の礼と、橋本関雪門下の西を紹介、また短冊八枚を西に託す。
   5日、精二宛書簡、末(26)が結婚するのをやめる気になり藤枝にその旨言った。これは自分がズベラだったのが悪いので謝るから本人にもよく言い聞かせて欲しい。また伊勢については離婚には賛成だが子供まで引き取るのは困る。平次郎に、伊勢にやる金を託したが当人遣い込みをして困った奴だ。嶋中宛書簡、短くてすまない、翻訳ぼつぼつやっている。長いほうを『女性』へ回す。
   8日、神戸の平和楼で十人の夫人が谷崎を招いて文藝漫談会、と十日の又新夕刊に。
   15日、濱本みね子宛漬物の礼状。小田作蔵宛書簡で、井上とみの土地家屋購入の件で金額の折り合いがつかず、貴殿に相談すべしとのことにて、いずれ参上。とみは目が見えなかったので親類の小田に交渉を依頼した(明里)。サバルワル宛英文書簡、誕生パーティーへの出席を断るもの。
   20日前後か、宇野夫人が精二のところへ来て、宇野が、もうお前とは別れる。谷崎に事情を話したら分かってくれて、君の妻をこちらで引き取って自分の妻を宇野にやってもよいと言ったから谷崎のところへ行け、と言われたので確かめてくれ、と言う。精二問い合わせ。
   26日付、宇野浩二(37)より手紙、序文の依頼。
   29日、精二宛書簡、宇野の話につき、改造社の選に漏れた時には社にも注意した、過日宇野から『魔都』(前年十二月刊)を送られたときには手紙も出したが返事はなく、最近近著短編集(『高天ヶ原』?)を送って来、手紙も来たが異常の様子はないので同封する、夫人を驚かすための佯狂ではないか。手紙には近々出す短編集の序文依頼があったが(精二註)、本当の発狂ならそれこそ序文を書くが、病状によって序文の書きようもあるから知らせてほしい。精二のことは春陽堂に話してみるが、加能のところへ行ってデタラメを言った社員は何という名か。藤枝の人物について調べてくれ。ことによると来月上京する。
 6月、淡路島で淡路源之丞一座の人形浄瑠璃興行、「生写朝顔日記」、観に行く。この月大阪のダンスホールが取り締まられ,ユニオンとパウリスタだけが残って、パリジャンの谷崎お気に入りの「じゅん子」が東京へ行ってしまう。
 「汽車の窓から」を『週刊朝日夏季特別号』に、「関西文学の為めに」を『大調和』に、「猫を飼ふまで」を『サンデー毎日』に掲載。
   13日、石井漠宛書簡、講演は苦手なので断る。この後奈良へ出発か。
   14日、奈良ホテルで、オレスト・プレトネル、ニコライ・ネフスキー(満35)、ニコライ・コンラド(満36)と会合したらしい。コンラドは『愛すればこそ』の露訳を志して最後の来日をしていた。
   15日、帰宅。
   16日、濱本宛書簡、今夜東京へ発って直接山本に会って話す。
 東京の佐藤春夫宅滞在中、田漢が神戸港に到着すると聞いて急遽関西へ帰る。
   22日、田漢、長崎丸で神戸到着。谷崎迎えに行くが、雷震と一緒で、これは誰かと思う。二人を自宅に泊める。
   23、4日、大阪文楽座、京都へ二人を案内。
   25日、祇園で遊んでいた田漢ら、夜行列車で東京に向かう。
   30日、田漢が関西へ戻ってくる。この頃、芥川と広津和郎相談の上、宇野浩二斎藤茂吉の青山脳病院に入院させる。
 7月1日、夜、田漢と大阪のカフェーへ出掛け、チツコという女給を交えて語る。田漢から、日本の映画技師を迎えたいと相談され、直哉の異母弟直三に依頼する。
   2日、長崎丸で出帆する田漢を神戸港へ見送る。
   5日? 大毎東日の日本八景委員会に選ばれ大阪に呼ばれる。
   7日、嶋中宛書簡、「顕現」休載の詫び。翻訳のほうも口述しており、『苦楽』のほうと一緒に出したい。
   12日、中根宛書簡、井上方の地所家屋の代金を改造社から出してもらうことになっていたが、十日の契約直前になって、今年は無理だと言ってきて困っている。そちらで何とか肩代わりできないか。
 同月、新八景視察の仕事で、屋島から鞆ノ津へ旅行。宇野浩二『我が日・我が夢』(八月刊)の序文を記す。
   20日、帰宅(?)
   22日(?)濱本ミネ子宛書簡。
   24日、芥川龍之介自殺。その葬儀に列するため上京。佐藤春夫支那旅行中。
   25日、『大阪毎日新聞』に「芥川君の訃を聞いて」掲載。
   27日、谷中斎場で芥川葬儀、帰途、鏡花、里見、水上、久保田らと小石川の偕楽園で追懐談をする。
   29日、帰宅。
   30日、隅野滋子宛書簡、ポオの「裏切る心臓」を試訳して見せたらしく、結構な出来ばえと褒め、今使っている高等商業の秀才よりよほど出来る。下訳をやってくれるなら原書を送る(恐らく『カストロの尼』の英訳)。木佐木勝は嶋中から翻訳特集の話を聞き、正宗白鳥から吹き込まれたと思う。
 8月17日、蒲郡へ避暑のため滞在、途中高野山での講演の後佐藤春夫が来て二日滞在、一緒に長良川鵜飼を見物。
   19日、「芥川君と私」を『改造』9月号に、「いたましき人(芥川龍之介追憶篇)を『文藝春秋』9月号に掲載。
   24日、岐阜で佐藤と別れ、その後帰宅。
   29日、和歌山の佐藤豊太郎(懸泉堂主人、64)宛書簡、春夫の消息について問い合わせがあったらしい。25日中には東京へ帰ったと思う。以後、豊太郎と交流が続く。
   31日、嶋中宛書簡、先ほど徳永から翻訳の催促を受けたが今半分以上できている。九月十日前後には脱稿。円本の印税も残り少なくなってきたので千円ほど前借りしたい。同日、辻堂の中村武羅夫宛書簡、『新潮』の原稿は義理があるので新年号に書く。
 9月1日、精二宛書簡、末のことはとんだことになった、当人も万平もそれなら早く事情を打ち明けてほしかった。相手の男が悪い人間でなければ許してやってよい。末、恋人がいたらしい。伊勢の件はもう一度ブラジルへ手紙を出して訊いてみる、自分は子供が嫌いで避妊をしているくらいだ。
   5日、丸山順太郎仏訳の対訳『無明と愛染』が白水社から刊行される。ほか「永遠の偶像」。
   6日、南京の国民政府、武漢政権と合体、直三の支那行きなくなる。
   7日、下渋谷636、杉山(茂丸)方のサバルワル宛書簡(英文)、かつて「パリジェンヌ」の女王だった、自分が夢中になったあの娘(じゅん子)がいまダンスホールで惨めな生活を送っていると聞いて心痛、堕落したならなおさら愛さずにいられない、もし東京にまだいるなら、カフェー・ミドリへ行って自分にしてあげられることはないか訊いてくれ、数日中に飛んで行って会うつもり、彼女の住所を教えてくれ。電報でなく普通の郵便で返事を。(志賀谷崎)
 10月、「東洋趣味漫談(饒舌録)」を『大調和』に掲載。
   1日、嶋中宛書簡、「グリーヴ家のバアバラ」できたので送る。徳永君に頼む、これで千円返せたのでまた千円借りたい。8日、武庫郡魚崎町のプレトネル宛書簡、先日は失礼、コンラド夫妻はまだ東京か。大阪へ来たら京都を案内したい。十日以降は暇。
   9日、精二宛書簡、千代からも出したらしいが行き違いで精二の手紙が来たらしい。末の手紙をみると、万平は婿に頼ろうと思って、その男が裕福でないので無理に別れさせたらしいが、亭主の留守に連れてくるのは乱暴だ、万平が何と言おうと男が良ければ一緒にさせるがいい。末に事情をよく聞いてくれ。場合によっては末と男をこちらへよこしてくれ。万平からは末を通して、三四十円貸してくれというので送ったがそれ以上は御免だ、今年になってから平次郎へ五六百円、善三郎に千円、堀江町へ三百円と親戚に金を貸している。苦学時代に世話になった恩人や先生にも困っている人がいてそちらへ尽くすのが先だから余裕がない。伊勢へもまだ送金できていない。     
   10日、伊勢の子ヨーコ脳膜炎で死亡。(細江)
   15日、プレトネル宛書簡、返事の催促。
 この後、佐藤が家族連れで来ていて、11月1日まで滞在の予定だったらしい。
   19日、ハーディ「グリーブ家のバアバラの話」を『中央公論』に掲載。
   23日、東京赤阪台町サバルワル宛ローマ字書簡、阪神ダンスホールで女子を追いかけているのが警察や新聞に知られてきた。ダンスに行けなくて寂しい。
   28日、プレトネル宛書簡、佐藤が来ていることを告げ、二日か三日の晩あたりコンラドの予定は如何、あなたも来てください。
 末は水間と結婚したが、うまくゆかず妊娠して戻ってきたらしい。
 12月1日、「マンダレーへの道」封切、観る。
 同月、欧陽余倩来日、京都の顔見世芝居に案内して梅幸の茨木を観る。その晩は祇園で遊び、下河原に泊まる。翌日、映画のスタジオ見物で、下加茂と牧野の撮影所へ行き、下加茂では林長二郎(30)と記念撮影、牧野では牧野省三が伊井蓉峰らの『実録忠臣蔵』の撮影中。
 同月、高信峡水、「婦人公論」編集長となり、嶋中は中央公論に専念。
   19日、サバルワル宛ローマ字書簡、佐藤が君に会いたいそうです、佐藤宛名刺の紹介状入り。
 この年、東京のジャパン・タイムズから、岩堂全智訳 A Spring-Time Case(お艶殺し) 刊行。
 この年か翌年、根津清太郎・松子夫婦の媒酌で、北野恒富の長男以悦が結婚。