谷崎潤一郎詳細年譜(大正14年まで)

jun-jun19652005-06-06

1924(大正13)年        39
 1月、「神と人との間」連載再開。『肉塊』を春陽堂から刊行。『苦楽』創刊号附録『代表的五大名家戯曲傑作集』(プラトン社)に「お国と五平」を収録。『演劇新潮』創刊され、同人となるか。
  この頃、伊勢の男児が危篤と中西から電報、精二と駆けつける。
   4日、伊勢の男児死亡。(細江)
   11日頃、伊勢再び道子を連れて精二宅に来る。
 2月、戯曲「腕角力」を『女性』に発表。『新潮』で「最近の谷崎潤一郎氏」久米「舞踏場にて」今東光「変化に富んだ表情」里見「遠くから見た谷崎君」岡本かの子「往時を基調にして」芥川「紅薔薇の様なネクタイ」中戸川吉二「鮎子ちやんは怖がらない」田中純「衣、食、住、踊」岡本一平「美慾と解脱とチーズ」「横浜に於ける潤一郎氏」(画)。
   12日、中根宛書簡、「近代情痴集」縮刷の件了解。『婦人公論』のほうはだいぶ長くなりそうだがいいものになりそうだ、もう一つ単行本をとの注文だが、いまプラトン社と改造社に約束がある。近日上京したら伺う。
   20−23日頃、戯曲「無明と愛染」第二幕を『改造』3月号に発表。
   26日、山本有三来訪、『演劇新潮』の原稿の相談、論文をなるべく早く、脚本は年下期でよし。
   27日、中根宛書簡、縮刷版のこと、「異国綺談」を別にするとのこと、しかし何を加えればいいのかご指示ください。それから今度移転するが急ぐので五百円前借りしたい。山本来た。
 3月、近松秋江『黒髪』に序文を寄せる。六甲山麓にて、とある。
   4日封切の『懐かしき母』に高橋英一、岡田時彦の芸名で出演、谷崎が与えた名。   7日、伊勢の離婚問題で、中西から手紙来るが、誠意感じられず。
   8日、伊勢と相談、伊勢は別れたいというが、中西は応じず。
   9日、精二宛手紙で伊勢のこと、終平の病気のこと。伊勢近々上京とのこと。
   16日、山本有三宛書簡、「お艶殺し」の件で藤沢君から手紙到来、しかし山田隆也からは報酬も挨拶もない、邦枝からも自分は関係ないと言ってきており、山田にみな騙されているのではないか。舞台協会をいじめたくはないが山田はひどい。
   17日、中西から伊勢へ電報、子供(道子)が病気だからすぐ帰れとある。
   18日、伊勢帰京、精二宛の手紙を持たせる。
 兵庫県武庫郡本山村北畑に転居(9−20日の間)、関西定住が始まる。
   20日から「痴人の愛」を『大阪毎日新聞』に連載開始。
 同月、佐藤春夫、赤坂の藝妓小田中タミ(22)と結婚。
 4月、精二「従妹」を『新潮』に発表。浪花座(第五会新劇座)で「腕角力」上演、続いて神戸松竹劇場でも。川口松太郎プラトン社に入っていた。
  家族を連れて京都、奈良に遊ぶ。「大和路を法隆寺から帰る道すがら、とある草原に親子三人がうづくまつてげんげの花を摘んで暮らしたうららかな一日」「雨のそぼ降る四条通りに俥を連ねて都踊りを見に行つたうすら寒い宵」(「佐藤春夫に与へて・」)大正十二年とされているが、この年かと千葉の推定。
 5月、戯曲集『無明と愛染』をプラトン社から刊行。「神と人との間」この月から8月まで休載。精二、助教授となる。
 「痴人の愛」連載中、泉鏡花訪ねてきて、犬を怖がる。南地で井阪、小村と飲む。鏡花その後山陰へ向かい、7月22日より「玉造日記」を「大阪朝日」に連載、千代を褒める。 6月、「痴人の愛」大人気ながら検閲当局の警告のため14日(87回)を最後に連載中止。排日移民法ゆえの反米感情からではないかと後年語っている。3日までに、萩原朔太郎、妹津久井幸子と関西旅行の途次、訪れる。
   5日、中根宛書簡、荷風の序文読み返すと、「附異国綺談」の文字を削っただけではダメであることが分かり、改めて自分で序文を書くか序文をなしにするか。
   28日、『新選谷崎潤一郎集』の校正を「校正の神様」と呼ばれた神代種亮に依頼する書簡(永栄)。掃葉と号する神代は永井荷風の親友。
 同月、精二、短編集『美しき人』を高陽社から刊行。
 7月、翻訳詩、タゴール「世界は書籍なり」を『女性』に掲載。『近代情痴集』新版を新潮社から刊行。米国で上山草人ラウール・ウォルシュ監督、フェアバンクス原作、主演の『バグダッドの盗賊』にモンゴルの王子として出演、成功を収める。
 同月、宝塚大劇場完成。
   1日、小出楢重(38)、根津清太郎、松子が、京都に岸田劉生を訪ねる。
 8月、「上方の食ひもの」を『文藝春秋』に、「洋食の話」を『随筆』に、「萩原君の印象」を『日本詩人』に掲載。
 夏、有馬温泉で仕事。千代、鮎子、終平が避暑に出掛ける。ここに和田維四郎の息子、六郎(21)がおり、東京薬学専門学校生学生、仕事をしている谷崎をよそに、千代、鮎子、終平、六郎の四人でよく遊んだ。
   25日、中根宛書簡、お尋ねの「神と人との間」の分量、装幀のこと、また五百円前借りの頼み、至急入用なので有馬ホテルへ送ってほしい。
 9月、シナリオ「雛祭の夜」を『新演藝』に掲載。宝塚大劇場菊五郎劇団の第二回公演、「娘道成寺」など観に行く。小山内、東京へ帰る。
   1日、中根宛書簡、先日は五百円をありがとう、クロース装見本のうち好みのものを指定、造本について、あと四、五日有馬にいる。木下杢太郎、ヨーロッパ旅行を終えて神戸港へ帰国。
   5日、谷崎原作「本牧夜話」、日活、浅草三友館で封切。三千子出演。
   20日、京都の濱本浩宛手紙、佐藤紅緑(51)の件で、山本有三、菊池、仲木員一、中村吉蔵のうち誰が一番紅緑と親しいか、近日日帰りで京都へ行く旨。結局仲木に手紙を書いたらしい。
   24日、伊勢、女児ヨーコを産む。(細江)
 この頃、終平、肋膜炎に罹り、甲南ホームというサナトリウムに入所。杉並一帯が火事で焼け、平次郎はブラジル行きを考える。
 10月、『藝術一家言』を金星堂から刊行。佐藤、「秋風一夕話」を12月まで『随筆』に連載。
   上旬上京
   9日、芥川と会う(芥川年譜)
   10日帰宅。永見徳太郎宛書簡で、従兄谷崎平次郎がブラジルへ移住するので、ブラジル名誉領事の永見に紹介状など貰いたく、来る14日神戸をメキシコ丸で出帆、長崎へ寄るので名刺を持参させる、云々。佐藤紅緑から手紙発信、仲木氏から手紙が来て戯曲全集に出せとのことだが中村吉蔵とは仲違いしており出したくない。あなたから彼らに忠告してくれたのだろうがあの人たちに認めてもらっても嬉しくない云々。(「文学者の手紙3」博文館)
   12日、濱本宛書簡、紅緑の手紙同封、不愉快を表明、手を引くと言っている。13、14日は不在。
   15日、濱本の手紙への返事で、紅緑との間の調停は不要、紅緑とは関わりたくなく、もともと認めておらず、濱本への義理で推薦した旨。
   18日、「映画化された『本牧夜話』」脱稿。映画の出来には不満だったようだ。
 同月、『文藝時代』創刊。
 11月、「痴人の愛」を『女性』(大阪プラトン社)に再連載開始(翌年7月まで)、「痴人の愛はしがき」を寄せる。「映画化された『本牧夜話』」を『演劇新潮』に掲載、同誌同人なので寄稿の義務がある、とある。精二『歓楽の門』新聞社より刊行。
 プラトン社の『女性』が、映画筋書懸賞募集、谷崎と小山内が選考委員になる(7月締切り)。渡辺温(24)の「影」を谷崎推し、一等当選。
   19日、阪急岡本より、濱本宛書簡、また紅緑から谷崎宅をロケーションにしたいと面倒なことを言ってきたから、本当の気持ちを伝えてほしい旨。紅緑は当時東亜キネマ所長で、妻の三笠万里子を使って映画を製作していたから、これは翌年の「母」の撮影をめぐるものか。
   25日、中根宛書簡、ルビ、仮名遣いなどの指定、また現代小説全集参加しなければ義理が悪いが改造社から千頁の著作集を出すのでそれとぶつかるから遠慮、もしどうしてもと言うなら『神と人との間』に「お艶殺し」「お才と巳之介」を加えたらどうか。
 12月、「神と人との間」完結。『新選谷崎潤一郎集』を改造社から刊行。
   14日、「読売新聞」に、来春四月フランス行きの記事。
   20−23日頃、「マンドリンを弾く男」を『改造』1月号に発表。
   30日、根津松子、長男清治を産む。(戸籍では翌年生)
 この年、水野亮訳『バルザック小説集』(春陽堂)を読むか(「藝談」に「フランドルの基督」への言及あり)、また『ストリンドベルク全集 第一巻 ダマスクスへ』(茅野蕭々訳)を読むか(「藝談」)
 この年、パリでエリセーエフ訳Neuf nouvelles japonaises 刊行、La tatouage(刺青) 入る。
 伊勢は二児を連れて谷崎のもとに逃げ、離婚を申し出るが中西許さず。この間中西は先妻に復縁を申し込む手紙を出していた。

1925(大正14)年       39
 1月、『神と人との間』を新潮社から刊行。渡辺温の「影」、『苦楽』『女性』に同時掲載、渡辺は小山内に師事する。
   6日、大阪松竹座で「バグダッドの王子」封切。観る。
   20日奈良ホテルより、下目黒・仲木貞一宛書簡、お手数をかけ中村吉蔵氏まで煩わせてすみません、あれは作者に先に印税を払うべし、中塚(栄次郎、「現代戯曲全集」の刊行者)宛には別途手紙を書いた。
   21日、仲木宛書簡、為替七百円落手。脚本選定の際は小生に見せて欲しい。
 2月、精二「石と火」を『中央公論』に発表。
 3月、『婦人公論』に「「遊ばせ言葉」を廃止すべし」を寄稿。草人、ポーラ・ネグリと、ウォルシュ監督『スエズの東』で共演。
   1日、和辻哲郎、京都帝大講師となる。
   12日、「蘿洞先生」原稿添付で濱本宛、電報を打った旨、印刷について神代種亮にも言っておいたこと。
   17日、芥川からの書簡(日付)、来月『新小説』が鏡花号なので何か書いてもらいたいと鏡花から頼まれた。鏡花全集の広告文を書いたが、広告文は『人魚の嘆き』以来久しぶり。
   20−23日頃、「蘿洞先生」を『改造』4月号に発表。
   28日、濱本宛、病気見舞い、親類筋の者が大勢やってきたので、これから奈良、京都を回る。京都は多分30日夜、吉はつへ電話を掛けてくれれば分かる。31日か1日に使いを出す、山本実彦(40)もその時分に京都へ来ると手紙。『痴人の愛』の組について。中根宛、書留便落手、年表(「現代小説全集」の年譜)は正確に書きたいが、地震でノート類が焼け、記憶に頼るほかない、四、五月頃に洋行の予定だったが、原稿が忙しくてできず、『演劇新潮』の原稿どうしても気に入ったものが書けず困惑、また千円貸してもらえないか云々。
 5月、「二月堂の夕」を『新小説』臨時増刊号に発表。
   20−23日頃、佐藤、小田原事件を題材にした「この三つのもの」の連載を『改造』6月号より始める。
 6月20−23日頃、「赤い屋根」を『改造』7月号に発表。せい子をモデルとする作品の最後。
   24日、十余年行方不明だった得三から手紙が来、訪ねてくるが、また姿を消す。精二は東京にあって会えず、終平から手紙で様子を聞く(「骨肉」)
 7月、春陽堂から『鏡花全集』刊行始まり、編集委員の一人となる。
 同月、東光、同人誌『文党』を始める。
   9日、阪急岡本から濱本みね子宛書簡、浩の高熱見舞い。先日山本が来、今朝小木曽が来て改造社の用件は片づいた旨。
   20日、『痴人の愛』を改造社から刊行。濱本浩宛、全快祝い、『主婦の友』の原稿が脱稿しそうで、済んだら四五日うち京都へ出る旨。
   25日、京都行き、岡崎の黒谷西住院に滞在。
   28日、濱本を訪ねるが病気は全快していなかったらしい。和辻、助教授昇任。
   29日、西住院から濱本宛書簡、昨日の詫び。ステッキ家を探している。
 8月、江戸川乱歩(31)が『新青年』臨時増刊号の「日本が誇り得る探偵小説」で、「途上」を探偵小説として称揚する。精二、「骨肉」を『不同調』に発表。
 同月始め、鹿ケ谷の和辻哲郎を訪ねる。
   8日、和辻宛書簡、独身の妹・末(24)が○○の発育不良で京都帝大の医師を紹介してほしい旨。今夕あたり会いたい、こちらから出掛ける旨。
   16日(大文字の日)、家族来る。府立医大の加治博士を妹のため紹介される。
   21日、和辻宛書簡で、帝大医師紹介不要となった旨。
   28日、午後四時半、杢太郎京都着、藤岡旅館、和辻、大藤、磯辺と会う。(杢太郎日記)
   29日、杢太郎に電話、和辻を誘ってきてくれとのことで使者による和辻宛書簡。都合が良ければ藤岡旅館まで来てくれ、来られないなら杢太郎へ電話してくれ。
 9月、『現代戯曲全集谷崎潤一郎篇』、国民図書から刊行。浪花座で「無明と愛染」上演、遊女愛染役は花柳。和辻、若王子に転居。
   1日、葛飾の前田方せい子宛、郵便振込の書簡。
   9日、精二宛書簡、伊勢は先日帰りたいと言いだして中西のところへ行ってしまった。精二も承知と思っていた旨、末の病気のこと、近々東京へ戻ってまた来る、終平はまだ入院中。二三日中に帰宅予定。
 伊勢が中西の許に戻ったため、中西、先ごろの復縁について先妻に断りの手紙を出すが、その返事は転々として、三年後にブラジルに届く。
   10日、濱本浩来るが不在(推定)
   11日(推定)濱本宛書簡、本日寺を引き払う旨、昼から買い物や訪問に出るので、こちらから行くか、午後六時頃木屋町中村家へ電話くれ。
   24日、『婦人公論』編集長嶋中雄作宛書簡、たびたび失礼、近々シナか西洋へ行くつもりにて仕事引き受けかねる。
 10月、「阪神見聞録」を『文藝春秋』に掲載。精二、「離れ去る者」を『中央公論』に発表。
  精二訳『アッシヤァ家の没落』新潮社より刊行。
   20日、滝田樗陰「中央公論」主幹を辞す。後任は高野敬録、編集部に木佐木勝など。
   27日、滝田樗陰死去(44)。
 11月、「馬の糞」を『改造』に発表。「西洋と日本の舞踊」を『大阪朝日新聞』に掲載。この月か、東京の客を案内して文楽座の『蝶花形名歌嶋台』を観るが、陰惨な芝居なので辟易する。精二、『大空の下』エルノス社より刊行。
   20−25日頃、「瀧田君の思ひ出」を『中央公論』12月号に掲載。
   23日、「西洋と日本の舞踊」を『大阪朝日新聞』に掲載。石井漠と小浪の公演を高く評価した。  
 12月、精二「過去」を『文芸春秋』に発表。
   26日、上海の土屋計左右宛書簡、現在は用事で東京、大晦日頃神戸から船で上海へ行く予定あり、ホテルの手配を依頼、上海と日本に家を置き行ったり来たりしたい、と述べている。土屋の住所を尋ねるため、笹沼を訪問したという。
 この年、パリで、エリセーエフ訳Puisque je l'aime(愛すればこそ)刊行。