1928(昭和3)年 43
1月、スタンダール「カストロの尼」を『女性』に連載(2月、4月の三回で中絶)。『新選谷崎潤一郎集』を改造社から刊行。
20日、ヨーロッパへ向う辻潤・まこと父子が大阪に投宿、自宅で送別の宴。
28日、草人の「支那の鸚鵡」出演を祝して美津濃運道具店で草人を偲ぶ会、和気律次郎、楢原茂二ら。試写を見て散会。
2月、「浦路夫人の内助」を『サンデー毎日』に掲載、明治大正文学全集第三十五巻『谷崎潤一郎篇』を春陽堂から刊行、月報、小宮、新居格、東光。
4日、新潮社の楢崎宛書簡、四月号執筆の件何とも言えない、中村武羅夫によろしく。
19日、『改造』3月号から5年4月号にかけて断続的に『卍』を連載。始め標準語で書き出される。
3月、隅野滋子は女専を卒業して大阪朝日新聞社会部記者となる。「谷崎潤一郎キネマ・スター映画座談会」岡田時彦、中野英治、酒井米子、夏川静江、沢蘭子、英百合子『週刊朝日春季特別号』
春、小林倉三郎、佐藤春夫を初めて訪ね、以後上京の度に訪れる。
5日、片上伸死去(45)。
7日、高円寺の富田砕花(39)宛書簡、上田敏が谷崎を褒めた件での問い合わせに答えたもので、活字になったものはなかったかと思う、京都で幹彦と訪ねたことがあり、あの時の令嬢が今の奥様なのでしょう。
16日、奈良の志賀直哉(46)宛書簡、改造の社員から具合が悪いと聞いたが如何か。網野菊(28)の件、月末の稽古の二、三日前にお知らせします、住所お知らせください。網野は日本女子大卒、志賀に師事し、大正十五年、『光子』を刊行していた。
これに対して網野の住所を知らせてきた。
23日、網野宛書簡、来る29日検校が来て稽古があるから四時頃来てくれるよう。検校は菊原琴治、大阪から週一回地唄の稽古をつけに来ていた。
25日から『黒白』を『東京朝日新聞』朝刊に7月19日まで連載。山本有三が書けなくなったので急遽頼まれたもの。この挿絵を担当した中川修造の紹介で妹尾健太郎(健は行人偏,25)を知り、以後妹尾夫妻と親しくする。猫を貰ったのが機縁ともいう。妹尾夫人君(33)は花柳界の出で、阪神社交界の花形的人物。妹尾は1927年、有山福重郎(56)が大阪高等職業女子学校を創設するに当たって出資した地主の息子か。
29日、網野菊来訪。
30日、東京麻布区三河台の志賀宛書簡、直三氏婚礼おめでとう、案内状貰ったが新聞で忙しく失礼、網野来訪のこと、観音は二、三日前奉安したので来月お帰りの際招待する。
4月、「東西味くらべ」を『婦人公論』(味覚から見た関西の三都)に掲載。
この頃、終平病気治り京都の中学校へ編入、週末は谷崎宅へ帰る。
1日、中根宛書簡、『新潮』の原稿(「続蘿洞先生」)、四月号に間に合わず五月号になったそうで恐縮。梅ノ谷の家、目下建築にかかっており金が要るので、長編小説全集の印税を前借りできないか。梅ノ谷1055−56番地の農家井上とみ方を買い取り、古い平屋建ての母屋に、別棟を建築。(『倚松庵の夢』細江)
4日、小田作蔵宛書簡、小切手で利子を払ったので領収書を送れ、残金のうち一万円前後は今月末ころ。
18日、中根宛書簡、千円頂戴した、なお『黒白』を全集に入れるとのことだが、朝日の夕刊に書いたものをそちらへ上げるつもりだった。『黒白』は山本の代わりに書いたもので、朝刊のほうはそれが終わるまで延期され、「阿波の鳴門」という題になる予定でこれを差し上げる。『黒白』は長すぎるので入れたら超過するだろう、これは改造社から出す。
19日、「敏先生のおもひで」を『改造』5月号に発表。上田敏全集が改造社から出るため。土屋宛書簡、上野山清貢を紹介し、帝展に二度入選、今度アフリカへ行きたいというので上海からの船賃が欲しく、画を買ってやってほしい。入り用でなければ建て替えておいてくれ。
『卍』三回目から次第に大阪弁が使われるようになり、大阪女子専門学校英文科の第一期卒業生、武市遊亀子(岡山出身)が雇われた。
5月、「続蘿洞先生」を『新潮』に発表、前田河広一郎(41)「谷崎潤一郎論(ブルジョア文学批判)」を『文藝戦線』に掲載。
21日、志賀宛書簡、25日九里と一緒に来ないか、支那料理ご馳走する、26日でもよし。
6月、この頃、末、男児を出産(秀雄)。
7月、麻田駒之助、中央公論社長を辞任。
7日、朝日学藝部の石田雄次、小倉敬二宛書簡、昨夜帰宅、振込のこと、及び連載『黒白』が百五十回前後で終わること。
12日、二代目左団次一行、ソ連政府の招きで歌舞伎海外公演に出発。
17日、祇園花見小路吉初から濱本宛、お祭りを見に来た、19日訪ねる。
19日、『黒白』ひとまず終了。
23日、葛西善蔵死去。
26日、逍遙訳シェイクスピア完成記念『真夏の夜の夢』を築地小劇場が帝劇で上演、佐藤とともに行き、廊下で小山内に会う。
27日、夕刻、偕楽園に鏡花を招待、佐藤夫妻も来る。夜、佐藤とともに下向、佐藤の家族と蒲郡を経て養老、日本ラインに遊ぶ。
同月、渡辺温、博文館を退社。
8月1日、嶋中、中公社長となる。
25日、自分の設計による新宅の上棟(鎖瀾閣)。
28日、『日本戯曲全集第四十二巻『現代篇第十輯』(谷崎・久保田・里見・鏡花)を春陽堂から刊行、谷崎の解説は渾大坊小平、月報は三宅周太郎。
9月、岡田時彦『春秋満保魯志草紙』(十二月刊)の序文を書く。
同月、雨宮庸蔵、中央公論入社。
10月6日、小出楢重から宇野浩二宛書簡で、谷崎の挿絵を描く旨。
15日、辻潤宛書簡、翻訳の誘いだがこのところ翻訳には懲り懲り、やはり創作がいい。上山草人後援会ができて祭り上げられそう。「アゲインスト・ザ・グレン(Against the Grain,ユイスマンス「さかしま」英訳)読んだら貸してくれ。
19日、竜胆寺雄「アパァトの女たちと僕と」が『改造』に発表され、谷崎絶賛すといわれるが確証なし。
11月4日、小出楢重宛書簡、使者(終平か)持参、先日お出での節は云々。新聞は御大典記事が済んだ十六日から載るそうです、三回分お届けします。
22日、プレトネル宛書簡、手紙拝見、『痴人の愛』の露訳喜んでいる。コンラドへ宛てた序文を書いたので送ってほしい。ラスプーチン伝読んでしまったので小包で送ります、急ぎませんが不要になったらお返しください。お招きいただいたが現在多忙、来月五日か十日。家の普請ができたらこちらへ招ぶ。小出宛書簡、手紙お礼、三回分届ける、鉛筆書きで失礼、前の三回分の挿絵、使いの者に持たせてください。
12月3日(日付は4日夕刊)から4年6月18日まで『蓼食ふ蟲』を「大毎東日」に連載。挿絵は小出。
4日、鴇田英太郎宛書簡、僕を頼りにするなという言を守ってくれて嬉しい、田中総一郎とはよく会うが君は上方へ来る予定はないか、云々。「蓼」休載。
13日、プレトネル宛書簡、その後スヴェトラーナちゃんはお元気ですか、随分大きくなったでしょうね。お招きに預かりましたが、正月の新聞に色々頼まれたので多忙、東京から帰ってくると家族同伴で年末から七草頃まで何処かへ転地、十日頃には帰宅します。先日中央公論の記者が来て豊島与志雄があなたの住所を知りたがっていた由。
同日、森田安松死去(65)
遊亀子から女専の一年後輩の江田(高木)治江に手紙、治江は卒論執筆中。谷崎が大阪のお嬢さんと食事をしたいので、25日5時頃、五人の友達を誘って阪急岡本の駅まで来てほしいと。治江は『痴人の愛』で、谷崎はエロ作家だと思っていたので武市と同クラスの隅野に相談すると、心配ないと言われ、鳥取出身で武市、隅野の同期だったが健康を害して休学し、同クラスになっていた古川丁未子(明治四十年生まれ、22)を誘う。丁未子はキーツを卒論に選んでいた。ほか二人を誘って出掛ける。
25日、岡本駅から、武市ら五人、「東京行進曲」を歌いながら登ってゆく。谷崎、千代、鮎子(12)、終平が出てくるが、末は出てこず。支那人が細長い机を持ってくる。本式の支那料理。丁未子は門限があるので、治江ともに帰る。武市は泊まり。
同日、小山内薫、偕楽園における円地文子(24)の処女戯曲「晩春騒夜」の築地小劇場での上演記念祝賀会の席上、動脈瘤で倒れ、死去、48歳
26日、上京、小山内の通夜。
29日から「蓼喰う虫」休み。
この年、千代(33)と六郎(25)の事実上の情事が進行していたと見られ、二、三ヵ月の子を流産し谷崎が立ち会ったという(終平)。
プレトネルへの手紙通りなら、年末から家族同伴で出掛けたか。
欧陽予倩訳「空与色」『潘金蓮』(上海、新東方書店)、楊騒訳『痴人之愛』(上海、北新書局)刊行。
1929(昭和4)年 44
1月、門脇陽一郎『坊つちやん』に序文を寄せる。
4日、「蓼喰ふ虫」再開。
同月、伊賀より月ヶ瀬に観梅の旅をする。宿は八百新。
同月、武市遊亀子、浅野氏と結婚。渡辺世祐『稿本石田三成』新版刊行(雄山閣)、読むか。
16日、嶋中宛書簡、佐藤澄子からの伝言受けた。「顕現」は完成させたい。あと五百円借りられないか。
22日、佐藤春夫から鮎子宛、片仮名書き書簡、行きたいけれどおじさんは貧乏で行けません、おばさんは病気で熱海、みよ子もそこへ行って風邪を引いたそうです、近所にピストル泥棒が入った云々。鮎子は宝塚小林の聖心女子学院中等科。
25日、江田治江宛書簡で、五日ほど泊まり込みで大阪弁の手伝いをしてほしいと言う。治江父に相談すると反対される。
26日、治江、父安太郎とともに断りのため谷崎邸を訪れると、菅楯彦の絵や谷崎の質素なのに感心して父の許しが出る。五日泊まって帰る。
29日、嶋中宛書簡、そんなに借りがあるとは知らず。七百円は困った。 2月、「ねこ」を『週刊朝日』に掲載。谷崎家には、ペルシャ猫の鈴、英国産のチュー、シャム猫の銀の三匹がいた。犬はシェパード、グレーハウンド、エアデルテリアが二匹、近いうち広東犬が二匹来ると書いている。新潮文庫第八篇『近代情痴集』刊行。
3日、中根宛書簡、「潤一郎犯罪(探偵)小説集」といったものを同じ叢書で出して貰えないか、『黒白』も金が入るから入れてもいい、前借り願いたい。
9日、中根宛書簡、単行本の案、「黒白」「白昼鬼語」「前科者」「或る罪の動機」「私」「途上」「日本におけるクリツプン事件」。「或る罪の動機」は単行本未収録、「私」と「途上」は新潮社の単行本に二度も出しているが優れているので加えたい。
19日午前1時半、泥棒入り、谷崎の一喝で逃げ出す。
21日、精二宛書簡、万平の借金の肩代わりの件で、まだ足らないというので、話が違うと言っている。弁護士と相談してみよ、云々。精二、間に立って困惑する。根津松子、長女恵美子を出産。
25日、中根宛書簡、単行本の順番について中根の提案を承知、追加するなら「金と銀」がいいが長すぎるから戯曲で良ければ「白日夢」がある。春夫宛書簡、千代は先方へゆくことに決まり、三月中に離籍し、四月ころから行ったり来たりしてだんだん向こうの人になる、神戸へ家を持つそうだ、今日東京から和田の兄が和田と来て話がついた。新聞連載書けずに弱っている。君に相談したいと私も千代も思ったが、もつれると困るのでやめたがもう決まったので会いたい。連載を休んで金沢の室生のところへ遊びにいかないか、云々。
恐らくこの後佐藤がやってきて、和田を問い詰めた。「生涯愛してゆく自信があるのだね」という質問に「それは分かりません」と答えた(終平)ため、佐藤の強硬姿勢で話は壊れ、和田は東京へ帰ったのだろう。
27日、精二宛書簡、万平に金は三百円出してもいいが、しっかり見張っていてほしい。末(28)の件は水間のほうへ掛け合いにいくことになっていたが、それはどうか。
同月、根津清太郎、松子の末妹の信子(19)と駆け落ち。
末頃、水間の両親から、秀雄を家の跡取りとして引き取りたいと申し出があり、谷崎が末に付き添って福山まで行き、秀雄を渡してくる。しかし後に末の懇望で再び秀雄を引取る(秀雄「鞆の津」)
3月、「故人と私」を『劇と評論(小山内薫追悼号)』に、「小山内君の思ひ出」を『週刊朝日』春季増刊号に掲載。
6日、春夫から鮎子宛、今度は大人向けの文章の手紙、「大ぶん大人になつてゐたのでうれしく思ひました」、4月の末には松屋かどこかで展覧会をする、あなたの新婚旅行にはおじさんがついていってあげます、云々。
11日、六本木サバルワル宛片仮名書簡、今苦しいことがある佐藤しか知らない。
同月半ば、江田治江、本格的に住み込む。石川のお婆さんは八十を越えており、じいやは隔日に武庫郡精道村芦屋字平田三九二の小出のところへ『蓼食ふ蟲』の原稿を持っていく。女中は三人、年齢順に、房、絹、秋で、秋が鮎子の雑用係。京大国文選科生の竹村英郎、富田砕花に師事し、そのつてで週二、三回、校正のため来ていた。
同月、月ヶ瀬観梅に伊賀上野へ出掛ける。
31日、村嶋帰之(39)宛書簡。
4月、古川丁未子は卒業後、扇町のYWCAの寮に住んでいたが、治江に、谷崎に就職の斡旋を頼みたいと手紙、教師は嫌で記者がやりたいという。谷崎は、苦楽園にいる、映画フォックス社で長谷川修二名でシナリオを書いている楢原茂二を紹介する。丁未子、治江同伴で会いに行くが、話は流れる。
丁未子さらに斡旋を頼んで来、谷崎に会うと、関西中央新聞社の岡成志を紹介してもらい、記者としての入社決まる。
この頃和田は東京で女狂いをして荒れていたという。
13日、里見・水上宛葉書、小山内全集編集委員引き受けた。明後日の会は欠席。
26日、小出宛書簡、二三日前から歯痛でうまく書けない、絵はチベット風観音を書いてください、原稿は明朝届けますが届かなければ書けなかったので大毎の方へ事情伝えてください。
5月、『卍』休載。新潮文庫第十四篇『潤一郎犯罪小説集』、日本探偵小説全集第五篇『谷崎潤一郎集』を改造社より刊行。鴇田英太郎『現代生活考』(十月刊)序詞を書く。 2日、春夫宛書簡、十日上京ゆえ来なくていい。「をかもとの宿はすみよし」の和歌。
9日、英国のグロスター公、ガーター勲章奉呈のため来日、この日歌舞伎座見物。
10日、小出宛書簡、あと十回くらいだが、明日朝特急で上京、十四日汽車で帰る予定、その後の予定、例のグロスター公殿下で新聞の方も一日くらいは抜ける。
11日朝、家族と上京か。
14日、母の十三回忌法要を慈眼寺で営む。同日帰西か。
浅野遊亀子が腹帯をするというので、治江・末とお祝いに出掛ける。
せい子は前田と別れて神戸のマンションに住んでいて時々やってきたが、ある時風紀問題で警察に睨まれているというので岡に始末を頼む。
梶原覚蔵、時おり現れて谷崎好みの女を斡旋していた模様、谷崎は時々女を買って夜遅く帰ってきた。
家族に治江、小出を招いて大阪川口町の支那料理に行く。
23日、東京改造社の濱本宛書簡、連載がもう少しで終わるのでハーディの訳待ってくれ、単行本化のための『蓼食ふ蟲』原稿は最初の方を送る。第一銀行支店へ印税振込頼む。
25日、村嶋宛書簡、78回の書き直しの件。同旨で小出にも書簡、なお予定より一二回早く完結予定、一度奥様とお越しください。しかし届けた終平から小出は留守と聞いたらしい。
26日、村嶋宛書簡、小出は今夜帰宅らしいので、挿絵なしで載せるか前のを使うかついでにもう一日休むか、都合をお知らせあれ。村嶋からは、東京と相談中との返事、その旨小出宛書簡。
6月、「『谷崎』氏と蒲生氏郷」記す。
11日、森川喜助宛書簡、15日に木村荘八と斉藤が来るので午後三時来ないか。森川は谷崎と同年の美術商で好事家。
14日、森川宛、木村の都合で16日に変更。同日、小出宛書簡、連載終了のお礼、昨日一寸遅れたのでなるべく早く原稿届けてくれ、村嶋宛書面ついでに届け願う、装幀も頼みたく今夜8時頃妹尾とともに行く。午後は春陽会へ行く予定。
16日、木村、斉藤、森川と自宅で夕飯か。
18日、『蓼食ふ蟲』最終回。
19日、北区天満天神裏大道弘雄宛、先夜は失礼、衣装売立又とない好機で見るだけでも見たいが両日とも先約あり、今度また知らせてくれ。
28日、勝本が関係している夕刊大阪新聞に、大毎重役から何か書いてやってくれと頼まれ断りきれず、「岡本にて」記す。挿絵を小出に頼んでくれとのことゆえ、同日原稿とともに小出宛書簡、梅林の景色でも何でも構わず、明日の正午頃社員が取りに行くので、絵ができなければ原稿だけ渡してくれ。
29日、精二宛書簡、証文の期限が七月二日だとは初めて聞いた、なぜ早く教えないのか、もう私は知らぬ。
同月末、岡、丁未子ら来て食事。遅くなって丁未子泊まり。
7月、「関西の女を語る」「東西美人型(近代美人論)」を『婦人公論』、「岡本にて」を『夕刊大阪新聞』に掲載。雨宮庸蔵、『中央公論』編集長に就任。
6日、京都の濱本宛書簡、十日夕方来てくれないか。
同月中、夙川の根津清太郎宅に招待され、千代と出掛ける。根津家、妹尾家と家族ぐるみのつきあいが始まる。清治は7歳。恵美子は森田重子になついている。妹尾君は、山村わかを地唄舞の師匠として迎え、三姉妹、君、鮎子が谷崎邸で習う。
12日、成田で、木村荘太の末娘、疫痢で急死。慰めの手紙を書く。
13日、中根宛書簡、全集の話らしく、『黒白』は犯罪小説集へ入れてしまい、『蓼食ふ蟲』は改造社から出す、もう少し待ってくれれば「顕現」が完成しこれは春陽堂から出す、待ってくれれば夕刊にでも百五十枚くらい書く。
19日、「『谷崎』氏と蒲生氏郷」(改題「私の姓のこと」)を『文藝春秋』8月号に掲載。
25日、牧野省三死去(52)
下旬、萩原朔太郎(44)離婚、二児を引き取る。
8月、「カフェー対お茶屋・女給対藝者」を『大阪朝日新聞』に掲載。
9日、嶋中宛書簡、拝復、五百号記念、何か書きたいが百枚程度のものしかできない云々。
13日、嶋中宛、快諾お礼。十日頃までには書く。
18日号「サンデー毎日」誌上裁判第二回「カフェー撲滅すべきか」の陪審員として村嶋帰之に答える。
阪神の青木(おうぎ)の根津家別荘に、谷崎、妹尾、治江の三人で泳ぎに出掛ける。
9月、「料理の古典趣味」を『サンデー毎日』に掲載。
6日、嶋中宛書簡、代わりの楽なものを思いついたが分載は困る。
7日、嶋中宛書簡、上中下と分けるので分載でもよし。
10日、嶋中宛、原稿送るがやはり上中だけ、稿料送ってくれ。
27日、嶋中宛、「三人法師」前半送った。原稿料至急頼む。それから現代もの上方もので「葛の葉」というのを「顕現」より先に書きたい。
28日、中根宛書簡、「趣味と娯楽」別紙の通り書いた、色紙は書き損じたので裏へ書いた、猫の写真はとられてしまい、改めて撮るのも大変、長編全集の検印は面倒なら精二のところで頼む、損をかけたようで申し訳ない。
「三人法師」現代語訳を『中央公論』10・11月号に分載。
30日、大道宛書簡、13,4日頃までは仕事にかかっているからその後二十日までの間に頼む、北野の友人根津清太郎も参加したいというので、三人とも懇意の南区三ツ寺町三の千福という茶屋はどうか。
10月、『饒舌録』を改造社から刊行。
同月、秦豊吉訳『西部戦線異状なし』が中央公論社から刊行される。同社初の単行本。ベストセラーとなる。
9日、大道宛葉書、根津が朝鮮旅行中で15日頃帰宅ゆえ19日は自分に先約があるのでそれ以後に日延べ。
19日、『卍』休載、代わりに評論「現代口語文の欠点について」を『改造』11月号に掲載、東京の「モガ」の間で、「君、僕」という言い方が流行しているのを憂えている。
11月、現代長篇小説全集第八巻『谷崎潤一郎篇』を新潮社から刊行、月報は新居、吉井、東光、かの子、里見。『蓼食ふ蟲』を改造社から刊行。短歌「春、夏、秋」を『相聞』に発表。
同月、渡辺温、博文館に再入社、『新青年』の原稿を催促して来、正月中に随筆を送ると約束。
4日、嶋中宛、吉野へ調査旅行に行くが二十日ごろになるから二月号で頼む。12月中にはできる。
8日、中央公論社社長嶋中宛書簡、正月号に「葛の葉」の原稿を出す約束した覚えないが、11月中にはできると言ったのはこちらが悪い(嶋中の誤読)、「三人法師」の時のように二回に分けるのは困る云々。
この後、土、日を使って(16、17?)上市から国栖まで吉野を見てくる。樋口喜三の案内。千代、鮎子、妹尾夫妻同道(大谷)
21日、嶋中宛書簡、新年号には間に合わないので2月としておいてほしい、また吉野へ行くか考え中。佐藤宛書簡、「葛の葉」を単行本にする約束で武蔵野書院からカネを借りたい。『大阪朝日新聞』「女人群像」にダンスホールで踊る根津松子の写真が載る。担当は隅野で、ために松子は親戚中から怒られ,隅野は谷崎から怒られる。
26日、嶋中宛書簡、随筆を頼んできたが、既に「葛の葉」を書きはじめているからそれは困る。
12月2日、春夫から鮎子宛手紙、なぞなぞ。
7日、嶋中宛書簡、原稿同封、筋を話す。これを「三人法師」と併せて和本にして中公から出してくれないか、挿絵は大阪の中川修造に頼みたい。それで五百円前借りしたいがどうか。ダメなら大阪の書店に話す。
10日、嶋中宛、承諾お礼。20日に草人迎えに上京するので21日電話する。「葛の葉」16枚送る、婦人公論の方がいいか。原稿料入金頼む。
13日、北野恒富(50)宛書簡、多忙につき訪問できず失礼、楠公遺族を主にすることはやめて播州皿屋敷を骨子に、云々と『乱菊物語』の構想を語る。
19日、「草人を迎えに行く日」を書く。翌日の『大阪朝日新聞』に掲載。
20日、上山草人、天洋丸で横浜へ帰国、ダグラス・フェアバンクスが離日する浅間丸とすれ違うので、停船させて二人は面会する。谷崎は夜グランドホテルの歓迎会でようやく草人と再会。川口松太郎、佐藤春夫、久米。夜、谷崎、佐藤、久米と根津清太郎、笹沼が草人室へ。土産のペルシャ猫二匹を貰う。
21日、朝日講堂で歓迎会、谷崎出席。
この間嶋中に会う。
27日、嶋中宛書簡、できただけ送るので原稿料電報為替で頼む。
29日、末、男の郷里福山へ無断で出奔。
30日、末から手紙、精二宛書簡で、もう万平の小松川の家作は人手に渡っても仕方なし、末のこと。ペルシャ猫の一匹、行方不明となる。
この年、市川中車出演の舞台『同志の人々』を観る(調査)
この年、銀座交詢社ビルに西川と志がバーを開き谷崎が「サンスーシ」と命名。
この年、章克標訳『谷崎潤一郎集』(上海、開明書店)、侍桁「両個幼児」『現代日本小説』(上海、春潮書局)刊行。岡成志『女心風景』(改善社)刊行。